第9話 蠢く違和感と、眠らぬ夜
魔物の肉を喰らい、ステータスを伸ばす。
その単純明快で確実な成長サイクルに、明確な『ブレーキ』がかかり始めたのは、洞窟生活も数日が過ぎた頃だった。
「……ふぅ。これで、終わりか」
巨大な角を生やした大トカゲ――『ホーンリザード』の巨体を完食し、俺は口元の血を手の甲で雑にぬぐった。
以前なら、このサイズの魔物を丸ごと一匹平らげれば、レベルが1か2は上がり、ステータスも目に見えて跳ね上がっていたはずだ。
だが、頭の中に響いたアナウンスは、酷くつれないものだった。
《条件を満たしました。筋力+3、耐久+2、素早さ+1を得ました》
《レベルアップに必要な経験値(栄養価値)に達していません》
「……やっぱりか」
俺は自分の身体を見下ろし、小さく息を吐く。
最初は、数キロの肉を食うだけでステータスがぐんぐん伸びていた。
しかし、レベルが上がり、体が『元が160kgあったブタおじさん』から『引き締まった大柄な戦士』へと変貌を遂げていくにつれ、肉体が必要とする栄養とエネルギーの量が異常なまでに跳ね上がっているのだ。
いわゆる、ソーシャルゲームでいう『必要経験値のインフレ』。
あるいは、体が進化すればするほど、より強大で高品質なエネルギー
――つまり『格上の魔物の肉』を要求するようになっているらしい。
「雑魚の肉をいくら食っても、胃袋を満たす以上の意味が薄くなってきてるな……」
今の俺の胃袋は、SSSスキル『暴食変異』によって、食べたものをいくらでも圧縮・吸収できるブラックホールのような状態だ。腹がはち切れるような物理的な満腹感は存在しない。
だが、スキルが満足する『質の高い満腹感』を得るには、もはやその辺をうろつく小型モンスターでは全く足りなくなっていた。
強くなるためには、より強い獲物を狩らなければならない。
シンプルだが、着実にサバイバルの難易度が上がっていることを実感していた。
◇
やがて、洞窟の外が暗くなっていった。
鬱蒼とした森に夜が訪れ、虫の鳴き声と、夜行性モンスターの遠吠えが木々にこだまする。
俺は洞窟の入口に薪をくべ、火を焚いた。揺れる炎が、暗闇をささやかに照らし出す。
「よし、そろそろ休むか……」
横穴の奥、落ち葉を敷き詰めた簡易的なベッドに身を横たえる。
昼間の狩りで体はそれなりに動かした。いつもなら、泥のように眠りについている時間だ。
――だが。
(……眠れない)
いくら目を閉じても、意識は冴え渡ったままだ。
ウトウトとする気配すら訪れない。それどころか、心拍数は落ち着いているのに、脳の奥底が静かに覚醒し続けている感覚があった。
「おかしいな……」
俺は起き上がり、自分の両手を見つめた。
10分、30分、1時間……じっと炎を見つめて時間を潰してみるが、欠伸の一つすら出ない。
瞼が重くなることもなければ、頭が重くなる感覚もない。
体が、全く『睡眠』を要求してこないのだ。
「待てよ……俺、最後に寝たのっていつだ?」
記憶を遡る。
異世界に送られてきて最初の夜、恐怖と疲労で意識を失うように倒れ込んだ。
……だが、それ以降。
肉を喰らい、『暴食変異』でステータスを強化し始めてから、俺は一度でも『寝た』だろうか?
「……一度も、寝てない……?」
寒気が背筋を駆け抜けた。
丸二日以上、不眠不休で魔物を狩り、肉を解体し、筋トレをし、洞窟を掘っていた。
それなのに、肉体にも精神にも、一切の疲労や眠気が蓄積していない。
普通なら、狂気や幻覚に襲われてもおかしくない過酷な状況だ。
なのに、今の俺のコンディションは『万全』そのものだった。
「睡眠が……要らなくなってる……?」
俺は立ち上がり、洞窟の外の暗闇を見つめた。
『暴食変異』。
喰らったものをステータスへと変換する神のスキル。
だが、その代償……あるいは『変異』の結果として、俺の身体は人間の根本的な構造を作り変えてしまっているのではないか?
エネルギーの摂取と回復を『食うこと』だけに一極集中させた結果、人間が生きるために不可欠な『睡眠』という生理現象そのものが、俺の肉体から削ぎ落とされたのではないか――。
「…………」
静まり返った洞窟の中に、俺の呼吸音だけが響く。
寝なくていいのは、この危険な異世界で生き残る上では圧倒的なアドバンテージだ。
夜間の奇襲を警戒し続ける必要もないし、暗闇の中でいくらでも鍛錬や作業ができる。
だが――強烈な『違和感』と『疎外感』が、じわりと胸を締め付けた。
睡眠欲の欠如。
それは、俺が着実に『人間』から遠ざかり、別の『何か』へと作り変えられている証明のように思えてならなかった。
「……考えるのは、後にするか」
俺は首を振って雑念を振り払うと、足元に転がっていた木切れとナイフを手に取った。
寝られないのなら、起きている時間を無駄にする必要はない。
夜明けまでの長い長い時間を埋めるように、俺は薪をくべ、黙々と次の狩りのための罠づくりを始めた。
暗闇の中、淡々と動く俺の手元だけが、焚き火の光に怪しく照らされていた。




