第61話:血と咆哮と迫る刻限
# 第61話:血と咆哮と迫る刻限
作戦がまとまり、部屋を満たしていた鉄の如き緊張がふっと弛緩した――その、一瞬の間隙だった。
――ギュルギュリュウウウウウッ……!
静寂を肉から引き裂くように、ダインの腹底から凄絶な水音が爆ぜた。
飢餓だ。
脳の髄まで灼き尽くすような「暴食」の副作用が、怒濤の如く押し寄せる。内臓を内側から爪で掻きむしられる激痛と、底なしの空腹。ダインは鉄仮面を押さえ、軋む膝を床についた。
「ハハッ! まったく、土壇場で締まらねぇな!」
アルが爆笑し、壁に背をあずけたスネアも肩を揺らす。
「まったくでやんす! 決戦直前に腹を鳴らすヒーローなんて聞いたこともねぇでやんすよ!」
「……笑い事じゃ……ねぇんだ……ぞ……っ」
鉄仮面の暗がりで、歯の根がガチガチと狂おしく鳴る。
肉だ。血だ。骨だ。何でもいい。この狂おしい胃袋の胎動へ叩き込まなければ、理性という名の細い糸がぶちりと切れてしまう――。
苦笑したザンギエットが、壁の通信機へと歩み寄った。
「失礼。刻限まではまだ猶予がございます。至急、特製のルームサービスを手配して参りますので」
手際よく連絡を終えると、執事は深々と一礼し、影のように扉の向こうへ姿を消した。
「ダイン様、もうしばしの辛抱にございます……」
身をかがめたリノが、小さく背を丸めるダインの肩を、温かく柔らかい手で撫でる。その健気な温もりに、ダインの荒い吐息がわずかに落ち着きかけた――その、直後だった。
――トントン。
「……ルームサービスでございます」
ドア越しに滑り込んでくる、冷ややかに整えられた女の声。
「あら……もう来られたのですね」
手配から、わずか数秒。安堵の微笑みを浮かべたリノが、何気なくドアへ向かって無防備な一歩を踏み出す。
「はーい――」
その瞬間。
部屋の隅に立つスネアの全身の毛穴が、一斉に逆立った。
(早すぎる……! ザンギエットが階段を降りきる時間すら経っていない――!)
「バカッ……!! 退がれリノちゃんッ!!」
スネアの喉を裂くような鋭叫。
だが――遅い。
**ドォオオオオンッッ――!!!!!**
思考すら追いつかぬ破壊の爆発。
炸裂した重厚なオークのドアを木片に変え、巨大な鉄杭ハンマーが音速の踏み込みとともに突入した。
圧倒的な鉄の質量。圧死させるほどの衝撃波。
直撃を受けたリノの華奢な肉体が、暴風に弄ばれる可憐な木ノ葉のごとく、宙へ弾け飛ぶ。
「リノッ……!?」
衝撃は止まらない。
分厚いテラスの強化ガラスを砕氷のごとく完膚なきまでに粉砕し――リノの小さく愛おしい身体は、漆黒の夜が広がる最上階のテラスの外へ、遥か下方へと蹴り飛ばされるように消失した。
◇
一瞬の惨劇。
視界を黒く掠めた悪夢に、ダインの思考は白く打ち消され、凍結した。
(な……なにが……リノ……が……?)
胸の奥が冷たく冷え切っていく感覚。だが――死線に肉体を浸してきたプロの反応は、コンマ一秒だった。
状況を看破したアルが、背の大剣を一息で引き抜き、腹の底から獣のように吠えた。
「スネア!! リノちゃんを追えッ!!」
「合点承知の助でやんすッ!!」
スネアは躊躇なく砕けた窓枠へと跳躍すると、夜の虚無へと消えた少女を追い、迷わず最上階のテラスから飛び降りた。
直後。追撃の破壊が部屋を穿つ。
**ゴロォオオオンッ!!**
ドア枠ごと壁一面が爆砕し、粉塵の嵐を巻き上げて一人の巨漢が躍り出た。
ハンマーをぶん回すオーガの男――【鉄血の解体屋】ドルド。
「オオオアアアッ!」
「ッの野郎……!!」
アルが大剣を振り下ろし、迫る鉄槌と正面から激突する。狂おしい金属音と火花が室内を焼き焦がす。
その粉塵の隙間――影のように滑り込んでくる、殺気すら殺した【気配】があった。
フードを深く被った小柄な影。
【毒蜘蛛】シルヴィア。
「えっ……えっ!? そんな、血の盟約の刻限はまだ……!?」
パニックを起こしたエレノアの悲鳴。
アルは歯を剥き出し、大剣を力任せに押し込みながら吐き捨てた。
「盟約なんざ端から破られてんだよッ!!」
ルールなど、最初から形骸だ。
刺客どもは『12時の鐘』を待つフリをし、獲物の警戒が極限まで解けたその瞬間を狙って、ドアの前で呼吸を殺して潜伏していたのだ。
あまりの衝撃と、リノを眼前で失った激動。
硬直したダインの僅かな隙を、シルヴィアは見逃さなかった。
シュッ――空間を切り裂く電光石火の踏み込み。
フードの暗殺者は、身を丸めたダインの首元へ、吸い付くような冷酷な正確さで肉薄した。
手に握られたのは、細く冷たいシリンダー状の暗器。
「――シッ」
冷酷な吐息とともに、首筋へ鉄針が突き立てられる。
間髪容れず、シルヴィアの親指が、二重構造の押し込み機構をカチリと深々と押し込んだ。
全身の肉を内側から泥のように溶かす、一滴で即死に至る【極毒】。
「……くふっ、終わりよ。愚かな大型犬さん」
シルヴィアの薄い唇が、確信に満ちた勝利の嘲笑を歪める。
――だが。
首筋に突き立てられた鉄針から、冷たく凶悪な毒液がドクドクと血管へ流し込まれる。 シルヴィアの勝利を確信した嘲笑が、耳元でねっとりと鼓膜を撫でた。
「くふっ……呆気ない。図体だけのデカい犬っころが…」
シルヴィアの心底見下した嘲笑が、首筋に突き立てた暗器から伝わる。
(ああ……またか)
首筋から全身へ広がっていく、死の冷気。 視界の端で、砕けた窓の向こうへ消えていったリノの幼い残像が焼き付いて離れない。
脳裏を泥のように過るのは、
前世――山田大輔だった頃の、腐りきった苦い記憶だ。
あの時もそうだった。理不尽な暴力や権力の前で、
他人が踏みにじられるのを指をくわえて見ているだけだった。
この世界に来てまで、俺はまた守れなかったのか。
また目の前で奪われ、惨めに地べたを這いずるだけの負け犬なのか――。
己の無力さへの狂おしい憤怒と、血を吐くような自己嫌悪。 その絶望の底で――胸の奥の黒い深淵が、ドロリと蠢いた。
**ジュウウウウウウウウッ……!!**
体内で重く沈んでいた『龍毒』が、そして飢餓に狂っていた『暴食』の細胞が、脈打つ即死毒を感知した瞬間、歓喜の悲眠を上げたのだ。
(熱い……いや、冷たい……? なんだ、これは……!)
絶望へと向かうはずだった死の劇薬。
それが血管を巡るたび、餓えに乾き切っていた細胞の一つ一つが、ゴクゴクと音を立ててそれを貪り呑み込んでいく。
まるで、激痛に苛まれていた体内の傷口に、極上の冷えた蜜を流し込まれたかのような――おぞましくも、狂おしいまでの【快感】と【充足】。
*《スキル【寄生毒・胞子無効(LV.2)】* *【真なる龍毒耐性(LV.1・新規獲得/順応中)】の効果により下位互換スキル【毒耐性(Lv.5)】によって、龍毒以下の性能の毒を吸収・順応化しました》*
「……なっ……!?」
シルヴィアの嘲笑が凍りつく。 毒が効かないどころか――注入した劇薬が、ダインの体内で巨大な炉の火種となり、血液を爆発的な狂熱へと加熱させていくのだ。
**ズシャァアッ……!!**
ダインの皮膚に、漆黒の刺青めいた龍毒の呪い紋様が急速に蠢いて広がり、壊れた甲冑のような外骨格の隙間から、禍々しい黒い蒸気がシュウウウッと爆煙となって噴き上がり始めた。
「な……何なのよこれ……! 毒を……喰ってるの……!?」
長年積み重ねてきた『毒殺者』としての常識が、完膚なきまでに崩壊する。
己の内に湧き上がるのは、優越感ではなく底知れぬ未知への【恐怖】。
ガチリッ。
「――ひっ」
暗器を握っていたシルヴィアの細い手首を、鉄の万力のごとき巨腕が掴み上げていた。
人間としての理性が、急速に黒い殺意と飢餓に塗りつぶされていく。 目の前で嘲笑う女。俺からリノを奪った刺客ども。そして、高みから弱者を踏みにじり、笑っているこの反吐の出る街。
(踏みつぶされてたまるか……喰ってやる。お前も、この街も、権力も……全部俺の胃袋で溶かして喰い尽くしてやる……!)
鉄仮面の奥。 深淵の暗闇の中で、血のように濡れた双眸が、ドロリと紅く発光した。
『――喰い……足……りねぇええええええええッッ!!』
**「グゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!!」**
メルカティの夜空すら爆砕せんばかりの、異形の咆哮が部屋の中に荒れ狂った。
落雷のごとき近距離での咆哮。
耳を塞いだエレノアは辛うじて耐えたものの、目の前で直接音圧を受け止めたシルヴィアの目と耳から、滝のような鮮血が吹き荒んだ。
「あ……あがっ……!?」
暗殺者としてのプライドも矜持も吹き飛び、激痛と恐怖でただの哀れな少女へと成り果てたシルヴィア。
白目を剥いて倒れ込もうとするが――覚醒した獣は、その離脱すら許さない。
**ガブリッ!!**
「ぎゃあああああああああああああああッ!!?」
ダインの異形の顎が、少女の華奢な肩口を容赦なく食い破った。
鮮血が天井まで撒き散らされる。狂乱の激痛に失神から強制的に引き戻されたシルヴィアは、自身の肉が喰いちぎられた惨状に、泡を吹きながら狂乱の悲鳴を上げた。
「う……あぁあぁあああああああ!!! あたしの、体……喰いやがったぁあああああ!!!」
パニックを起こし、血の海で手足を狂ったようにバタつかせるシルヴィア。
――スバッ!!
冷酷な一閃が奔り、シルヴィアの首が空中を舞った。
「うるせーよ、もう死ね。どう見ても助からねぇだろ」
一瞬の咆哮で敵の動きが止まった隙を、アルが見逃すはずもなかった。
立て直す猶予を与えるほど、アルは甘いお人好しではない。
首を撥ねられたシルヴィアの胴体が倒れ込む横で、ドルドもまた、心臓を大剣で深々と穿たれて壁へ叩きつけられていた。
「ハッ……決まったか」
だが――。
胸から血を流しながら、ドルドが重々しく立ち上がった。
さきほど幼いコボルトの少女をハンマーで殴り飛ばした
己の非道はすっかり棚に上げ、妹のように可愛がっていたシルヴィアの
無惨な遺骸を見つめ、怒りで顔を醜く歪める。
「へぇ……鉄みてぇな心臓の感触だと思ったが、何か仕込んでやがんな?」
アルが眉をひそめる。オーガ族特有の【ヒーリングファクター(自己再生)】。だが、心臓を穿たれて立ち上がるなど尋常ではない。
ドルドは胸の傷を無視し、咆哮を上げた。
「ウボォオオオオアアアアアアアアア!!!」
オーガ族のスキル【ウォークライ】。
メキメキと骨肉が蠢き、ただでさえダインと同等の巨躯が、さらに一回り巨大化していく。
「させるかよッ!!」
アルが踏み出そうとした、その瞬間――。
ズバァンッ!
アルより早く飛び出した黒い影が、巨大化するドルドの首筋へと容赦なく喰らいついた。
ダインだ。その瞳にはもはや理性のカケラもなく、ただ獲物を屠る獣の狂光だけが宿っている。
「グォオオオオオ!? なんだこの化け物はぁあああああ!!」
首筋を噛み砕かれ、ドルドの顔から猛悪な威勢が吹き飛んだ。
壁に巨躯を叩きつけ、錐揉み状にのたうつが
首筋に食い込んだダインの強靭なアゴはビクともしない。
肉を削り、骨を砕く強烈な咀嚼。
死力を尽くした【ウォークライ】のパワーすらまったく意に介さない異形の狂気に、ドルドの胸は恐憟で満たされた。
こいつは人間ではない。言葉の通じない、本物の怪物だ――。
溢れ出る激痛と極限の恐怖に耐えかね、ドルドはダインを振り払おうと、そのままの勢いで砕けた最上階のテラス窓から夜の空中へと身を投げ出した。
**ドガラガシャァアンッッ!!**
高層階から夜のメルカティの路上へ落ちていく二体の巨躯。 隕石が落撃したかのような大轟音が、闇の街並みに轟き渡った――。




