第58話:ディナーの下見
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# 第58話:ディナーの下見
最高階の客室で湯あみを済ませ、湿った髪を乾かしていた時のことだ。
**コン、コン。**
重厚なオーク材のドアが、冷たい金属的な音を二つ刻んだ。
扉を開けると、そこには首元に真新しい包帯を巻き直したアルが、壁に体重を預けて立っていた。指先で想像のグラスを揺らす真似をしてみせながら、口端を薄く歪める。
「おいダイン。ちょっと下に付き合えよ」
「下……? エレノアがデータの解読に集中している最中だぞ」
「かたいこと言うなよ。せっかく普段なら足を踏み入れることすら叶わねぇ、最高級ホテルのラウンジなんだ。下に揃ってる『お客様方』に、挨拶も兼ねてショットを一杯ひっかけに行こうじゃねぇか」
アルの瞳の奥に潜む、冷たく澄んだ意図を読み取り、ダインは無言でジャケットを羽織った。ホテル・アジールが用意した、オーガ族の巨躯すら包み込む特大の仕立て着だ。
エレノアを通信機材と護衛のスネアに託し、二人は重厚な螺旋階段を降りて、一階のメインラウンジへと足を向けた。
◇
真鍮の重扉を開けた瞬間、心地よい重低音を響かせる弦の旋律と、最高級ヴィンテージ・タバコの芳醇な香気が鼻腔を打った。
天井のシャンデリアが投げる琥珀色の光。一見すれば洗練された上流階級の社交場だが、肌を刺す空気の「質感」は、あまりにも重く、冷たく、そして不吉だった。
「あら……噂をすれば、今夜の『主役』のお出ましね」
ラウンジの最奥、深紅のレザーソファ。
脚を組み、真鍮の煙管から細く美しい紫煙を立ち昇らせていた美女が、妖艶な濡れた瞳をこちらへ向けた。
漆黒のシルクドレスに身を包んだ官能の体現者――暗殺者ギルド『黒の回廊』の幹部であり、高級娼館『黒猫の囁き』の頂点に君臨する女、**ジゼル**だった。
「ッ……『黒猫の囁き』のNo.1嬢じゃねぇか!」
アルが口元をニヤつかせ、鼻の下を伸ばしながら眉をひそめて呟く。
ジゼルはふっと朱色の唇を滑らせ、煙管の煙をくゆらせながら、アルの全身を品定めするように流し目で見つめた。
「あら、いい男。残念だわ……お客としてあたしの店に来てくれたら、極上のひと時を味わわせてあげたのに」
「極上のひと時……!?」
その言葉が落ちた瞬間、アルの目がギラリと光り、隣のダインへ猛烈な胡散臭さを込めた視線を向けた。
「おいダイン……お前、まさかあの日、紹介状を持ってあの店へ行って……すでに『極上のひと時』を味わったんじゃないだろうな……!?」
刺すようなアルの疑念と嫉妬の眼光。
ダインは鉄仮面の奥で絶望的な暗雲を漂わせ、重く、心底悔しそうに低く絞り出した。
「……くっ、、味わえなかった……」
(※ジゼルのフェロモンに当てられかけた際、背後に立ったリノの絶対零度のヤンデレオーラに阻まれ、命の危険を感じて逃亡したため)
そのあまりにも惨めで、嘘偽りのない「無念」の告白。
ジゼルは一瞬呆気にとられたように目を丸くした後、紫煙の向こうで目を細め、胸をゆったりと揺らしてクツクツと笑った。
(ふふ……この期に及んで、なんて青くて無邪気な男たち……)
ジゼルは立ち上がり、ドレスの裾を滑らかに揺らしながら二人へ歩み寄った。
数時間後には全街を敵に回し、死の旋風の中へ飛び込もうとしている惨烈な冒険者たち。だというのに、目の前にいる二人はまるでくだらない下ネタで盛り上がる思春期の少年のように、どこか晴れやかで無垢だった。
硝煙と血の匂いに塗れ、すっかり擦り切れてしまったジゼルの胸の奥に、ふっと温かい風が吹き抜ける。
生きることに必死で、まだ何も知らなかった――かつて自分自身が「少女」だった頃の、遠い光の記憶。それを彼らの愚かしくも眩しい姿の中に、ジゼルは見出していた。
ジゼルは甘い毒の香りを漂わせ、ダインの目の前で足を止めた。
「……本当に可哀想に。あのコボルトの女の子、今夜も怖い顔であなたを待っているんでしょうね」
そう言って微かに微笑んだジゼルの瞳から、ふっと温もりが消え、暗殺者ギルド幹部としての冷徹な「影」が落ちた。
「……あたしが紹介状を書いた相手が、まさかメルカティ一の権力者に唾を吐きかけるなんてね。黒の回廊に泥を塗った代償は、高くつくよ」
ジゼルの低く滑らかな声音が、氷の刃のように二人の鼓膜を撫でる。
「……恨まないでね。うち(黒の回廊)も商売なの。ヴォルペからの『ご指名』を断るほど、野暮じゃないの。……次に会う時は、冷たいベッドへご案内するわ」
黒の回廊がすでにヴォルペ側に接収され、敵として立ち塞がるという残酷な現実の宣告。
ジゼルは切なさの混じった吐息とともに、最後の紫煙を吹き出した。
「……うちの娘たちも貴方達をおもてなしするわ。激しくて、冷たい夜になるわね。……せいぜい、極上の夜を愉しみなさいな、少年たち」
それだけを静かに残すと、ジゼルは一度も振り返ることなく、優雅で影のある後ろ姿を残してラウンジの奥へと消えていった。大人として、暗殺者として、かつての少女の追憶に背を向けるように。
◇
ジゼルが去った後、二人はバーカウンターへ腰掛け、差し出されたショットグラスを無言で傾けた。
カラン、と氷が乾いた音を立てる。
「……ふぅ。さて、ダイン。周囲をよく見てみな」
アルがグラスをカウンターへ置き、指先で弄びながら低く呟いた。
ダインが琥珀色の液体の向こう側に、さりげなく視線を走らせる。
一見すれば、落ち着いた風体で酒を愉しむ客たち。だが、彼らのグラスを握る指の配置、呼吸の浅さ、そして服の皺の下に隠された【鋼の厚み】と【死臭】は、カタギのそれとは決定的に異なっていた。
「あそこに居る片目の男……あれは【影縫い】のロイだ。百歩離れた闇の中から、音もなく心臓だけを穿つ腕利きさ」
アルが淡々と通り名を口にしていく。
「その隣で静かにパイプを吹かしてる大男は【鉄血の解体屋】ドルド。肉弾戦なら熊すら素手で叩き潰す狂犬。……奥のテーブルでカードを弄ってるあの女は【毒蜘蛛】のシルヴィア。掠り傷一つで全身の肉を溶かす毒針の使い手だ」
いずれも裏社会で名を馳せる、一筋縄ではいかない超一流のプロたち。そして、彼らが属する組織や仲間の中には、ジゼル率いる『黒の回廊』の刺客たちも紛れているのだろう。
彼らは誰一人として武器を抜かず、大声も出さない。ただ、グラスを傾け、カードをめくるフリをしながら、ダインたちの歩き方、歩幅、重心の位置、そして傷の深さを――冷徹な眼光で「計測」していた。
『ホテル・アジール』の絶対不可侵のプロトコル(掟)を守りながら、彼らは刻一刻と迫る死闘の瞬間に備えているのだ。
アルはグラスの底に残ったウイスキーを揺らし、苦笑混じりに口端を上げた。
「どうやら……コースメニューの下見に来たのは俺たちじゃなくて、奴ら(刺客たち)の方だったみたいだな」
12時の針が重なった瞬間、このラグジュアリーな空間は一瞬にして血の屠殺場へと変貌する。彼らはそのための「事前チェック」を終えたのだ。
ダインは空になったグラスを静かにカウンターへ戻すと、鉄仮面の奥で短く呟いた。
「……部屋に戻ろう」
「へいへい。最高のディナーの仕込みに取りかかりますかね」
二人は静かに立ち上がり、静寂な殺気が渦巻くラウンジに背を向けたのだった――。
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