第55話:聖域への招待
# 第55話:聖域への招待
重厚な木製の扉がぽんと閉まり、外の冷気と雨の匂いが一瞬で遮断された。
ガタゴトと規則正しい車輪の振動を響かせ、漆黒の馬車が夜のメルカティを走り出す。
重圧と疲労に塗れた身体を滑り込ませたダインは、ステップを上がった直後、視界に広がった光景に微かな違和感を覚えていた。
(……妙に、広い)
外見からは想像もつかない空間の膨張。
身長二メートル半、九十キロを超えるダインの巨躯が入り込み、アルが身の丈ほどもある大剣を肩に担ぎ直しても、一切の窮屈さを感じさせない。それどころか、ちょっとしたワンルームの個室ほどの奥行きと高さが確保されていた。
首元に鋭利なナイフの刃を直撃させられたまま、ザンギエットは一切の取り乱しを見せず、どこか誇らしげに口元を緩めた。
「あぁ、お気づきですか。ここは亜空間収納袋の構造を少し応用して組み込んでいるのですよ。とはいえ、伝説級の無限収納などのアーティファクトとは違い、広さには限界がありますが……この馬車も中々の物でしょう?」
密室にそぐわない悠々とした解説。
喉元へ突きつけた己の狂暴な殺意を、まるで春風のように飄々と受け流されたアルの顔に、困惑と苛立ちの影が差した。
「……状況、わかってんのか?」
低く唸るアルの横で、刃を寸分違わず添え続けるスネアが、感情の失せた目つきのままポツリと口を挟む。
「商人ってのは、口が一番の武器みたいなもんでやんす。あっしらは既に、奴との戦いの真っただ中に居るってことですぜ」
「えぇ……まさに、その通りでございます」
ザンギエットは満足げに頷き、細い目をさらに細めた。
殺伐とした沈密が車内を支配しかけた、その時――。
「うぅ……ゲホッ、ゲホッ……!!」
アルが横たわらせたのであろう客席の上で気絶していたエレノアが、
苦しげな咳払いとともに薄目を開けた。
意識を取り戻した彼女は、ぼやける視界のなかで突きつけられた刃と、
平然と佇む男の姿を認識し驚愕に目を見開いた。
「こ、ここは……!? ザンギエットさん!? アルさん!? スネアさん!? な、なにをしているんですか!?」
「……チッ」
絶妙に間の悪いタイミングでの目覚めに、アルは不機嫌そのものの舌打ちを漏らした。
状況を飲み込めないエレノアは、白衣を濡らしたまま慌ただしく捲し立てる。
「やめてください!! その方はメルカティの孤児院や
診療所への寄付をずっと収めてくれている、
トマス商会の重鎮ですよ!!
決して刃物を向けるべき相手じゃあありません!!
私も、スラムの人たちも、ザンギエットさんに何度助けられたか……!!」
必死の抗議。だが、アルもスネアも、その身体を微動だにさせなかった。
ダインは胸元に抱きつき、濡れた耳を震わせたまま
小さな吐息を立てて眠りについたリノをそっと支えながら、
静かに成り行きを見守っていた。
客席に先ほどまでのエレノアと同様に横たわらせた
意識を取り戻す気配のないミラとカインの容態を気にかけつつも、
この奇妙な空間の緊張感を観察する。
アルはエレノアの叫びを完全に無視し、血のついた顔でザンギエットを見据えた。
「それで……タイミング良く現れたのは偶然かい?
それとも何か商談をしに来たのかい?
あんまり芝居がかった物言いだから、つい乗り突っ込みしちまったぜ。
馬車だけに」
自潮気味なジョーク。スネアは呆れた冷ややかな視線を一瞬だけアルに向け、すぐに完全なスルーを決め込んだ。
二人に無視されたエレノアは、額に青筋を立てて髪を振り乱した。
「アルさん!! スネアさん!! 聞いてるの!? 武器を下ろしなさいって言ってるのよ!!」
「……チッ」
スネアの口から、二度目の不機嫌な吐息が漏れた。
彼女は武器を下ろすどころか、その瞳の奥に宿る「悪童」としての暗い光をいっそう濃く漂わせた。
ダインはそれを見ながら、心の底で薄々感じていた確信を深めていた。
(アルは口も素行も粗暴だが、根の部分には捨てきれない善性が残っている。
……だが、このスネアという少女は違う。
表面上は軽薄に振る舞っているが、その根底にある業はアルよりも遥かに深い)
「武器を……降ろして……ッ!!」
ついに耐えかねたエレノアが、白衣のポケットから術用のメスを掴み出し、
ヒステリックに叫んだ。
人に刃物など向けたことすらないのだろう、その細い手首は
ガタガタと激しく震えている。
アルとスネアのどちらに突きつけるべきかも分からず、ただ恐怖と正義感の狭間で乱れるエレノア。
対照的に、スネアの瞳は先ほど金貸しの背中を容赦なく蹴り飛ばした時と同じ、底なしの冷酷さに染まりきっていた。
このままでは不毛な流血が起きかねない。ダインは重い口を開いた。
「刃物も威圧も、どうやらザンギエットには通じていないようだしな。
商人は口で戦うっていうのなら、俺たちもフェアに乗ってやったらどうだ?
……それに、俺も少し座って休みたい」
重量感のあるダインの声が、車内の張り詰めた糸をふっと緩めた。
スネアはチッと短く舌を鳴らしてナイフを袖へ戻し、アルもまた肩の大剣を床へ置くと、ドカッとビロードの座席へ深く身体を投げ打った。
◇
「……感謝いたします、ダイン様」
ザンギエットは胸に手を当てて優雅に一礼すると、真摯な表情へと鋭く切り替えた。
「それでは、あまり時間もございません。手短にお話しさせていただきます」
ザンギエットは喉を整え、車内に響く低い声で切り出した。
「先刻の地下水道の事件を受け、ヴォルペファミリーはあなた方に対し、
裏社会全域へ多額の懸賞金を掛けました。
偽の冒険者証の件も時間の問題……
腐ってもヴォルペはこのメルカティを牛耳る一大マフィア、
いずれあなた方の正体へ辿り着くでしょう」
理解と共にアルが呆れたようにつぶやく。
「……なるほどな、よく知ってんな」
「さらに言えば、メルカティは元より商人連合の議会によって運営されている街。
その警察・軍務機能を担う治安維持部隊もまた、
議会の可決ひとつで動き出します。
メルカティへの反逆とみなされれば、血の盟約に基づき、
この街全体があなた方の敵となる……
そうなれば、地の果てまで追い詰められることになります」
ザンギエットは切実な憂いを帯びた瞳で言葉を重ねる。
「恥ずべきことではありますが、メルカティの経済の屋台骨はヴォルペファミリーが牛耳る負の産業に依存しているのが現状。
これを覆すのは容易ではありません。
……しかし、我々トマス商会はこの未曾有の混乱を、
絶好の『好機』とも捉えております」
アルは鼻で笑い、脚を組んだ。
「ふーん……やられる前にヴォルペをやっちまえってか? だが、首を挿げ替えたところで、次の毒蛇が生まれるだけじゃねぇのか?ヒュドラみたいにな。」
「そうかもしれません。しかし……このままではメルカティは完全に
ヴォルペの闇に飲み込まれ、二度と我々真っ当な商業家の手で
運営することは叶わなくなる。
その前に、血の浄化が必要なのです。
……交渉で道を切り開くべき商人が血で血を洗うなど、なんとも皮肉な話ではありますが」
暗い情熱を覗かせるザンギエットに対し、アルは眼光を低く敷いた。
「それで……あんたはその上でどうしようってんだい?
俺たちをヴォルペに差し出すのか?
逃がしてくれるのか? それとも、奴を討つ手助けをしてくれるのか?」
「私が皆様に提示できる選択肢は、二つ」
ザンギエットは恭しく二本の指を立てた。
「一つ目は、我がトマス商会が運営する『血の盟約のもと、すべての闘争が禁じられた聖域』
――ホテル・アジールへ皆様をお連れすること。
そこで束の間であっても傷を癒やし、決戦のサポートをさせていただく。
……二つ目は、この馬車を使い、追手の手が及ばぬ遠くの大陸へ逃亡することをお助けすること」
アルは天井を見上げ、うーんと唸った。
「まー……このまま地の果てや別の大陸まで逃げおおせるのも、悪くねぇけどなぁ」
その言葉を受け、ダインの内に秘められた「怪物」が静かに首を持ち上げた。
「……やられっぱなしは、面白くねぇな」
重々しいダインの呟きに、全員の視線が集まる。ダインは鉄仮面の奥から、漆黒の怒りを孕んだ眼光を放っていた。
「俺は昔から……大きな権力や企業力を笠に着る奴らに、
都合よく使い潰されて捨てられた人間を何人も見てきた。
……今の、龍毒に侵された俺にどこまでの力が残っているかは分からねぇ。だが」
ダインは太い拳を固く握りしめ、骨が鳴る音を車内に響かせた。
「このまま、こんなところで踏み潰されるなんて……まっぴらごめんだね。
虎の尾を踏んだってんなら、喰ってやろうじゃねぇか。
虎は、まだ喰った事がないからな。」
その言葉を聞いたザンギエットの口元に、満足気な笑みが浮かんだ。
「であれば……決まりましたな」
ザンギエットは胸ポケットから銀の懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開いた。
「とはいえ……トマス商会の血の盟約により、皆様をホテル・アジールで『聖域』としてお守りできる時間には厳格な限界がございます。……せいぜい、今夜の十二時(深夜)まで、といったところでしょう」
突きつけられたタイムリミット。
その時、ずっと魔晶石を抱きかかえていたエレノアが、不安げに声を上げた。
「あの……できれば私は、スラムの診療所に戻ることはできないでしょうか……?」
ザンギエットは静かに首を横に振った。
「エレノア様には当ホテルにて、そのルチアーノの研究所から奪取されたデータの解析……そして、アルデバラン様たちのサポートを行っていただきたく存じます。
当ホテルにも、専用の機材を用意致します。」
狼狽えるエレノアの横で、アルは肩に担いだ大剣の柄をトンと床へ突くと、黒い瞳に鋭い光を宿らせて言い放った。
「なんでもお見通しか…まぁ、腑に落ちない部分は多いが、良いぜ。俺達も乗ってやるぜ」
逃亡か、死闘か。
血の盟約に守られた「朝までの聖域」の中で、ダインたちの運命の歯車が静かに回り始めたのだった――。
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完全に余談になりますが、この『ブタおじさん』は、どうすればもっと面白くなるかと楽しみ半分、苦しみ半分で悩みながら執筆しております。
その際、行き詰まった時の気分転換も兼ねて、新作の執筆も始めました。
まだ7話までしか書いておりませんが、『境界探偵レム』も気が向いた際にお読みいただけると嬉しいです。
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