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第54話:路上の掟と、親切

# 第54話:路上の掟と、親切


「おいおい……弱り切ったガキを殴るのに、遠慮はいらねぇよなぁ?」


暗渠の出口、死臭とドブ水が混ざり合う湿った石畳の上で、金貸しの男は下品な歪んだ笑みを泥のように唇に張り付かせ、悠然と歩み寄ってきた。


両手に嵌めた【金色のメリケンサック】が、街灯の鈍い光を反射して、夜の冷気の中で凶悪な殺意の牙を剥いている。


指一本動かすことすら途方もない苦痛を伴い、暗黒剣の柄にすがりついてかろうじて膝をつくアル。肺腔は焼けるような熱を帯び、吸い込むたびに鉄の味が口中に広がっていた。視界の端では、絶命したかのように動かない仲間たちが打ち上げられている。


その壊れかけた亡霊のような姿を、絶好の「獲物」と確信した金貸しは、欲望に瞳を濁らせ、勝ち誇った顔でアルの頭上へ太い拳を振り上げた。


「まずはテメェの顔面を潰して、礼儀ってやつを――教えてやるぜっ!!」


**ガッ、ドゴォン!!**


硬質な金属が肉と骨を叩き潰す、鈍く重い破砕音が夜の空気を震わせた。


アルの首が激しく揺れ、裂けた唇から赤黒い血片が石畳へ叩きつけられる。脳揺れによる強烈な眩暈が全視界を真っ白に染め上げた。


「オラッ!! まだ寝んなよッ!! 俺はなぁ!」


**バコッ!!**


「路上のっ!」


**バコッ!!**


「伝説って言われてた喧嘩士でよぉ!!」


金貸しは倒れ込むアルの腹部へ、体重を乗せた容赦のない蹴りをぶち込んだ。


「ぐっ……ガハッ……!?」


内臓が押し潰される激痛に、アルの喉から血の泡が噴き出す。


おっさんは足元で悶絶するアルの髪を掴み上げ、獣のような惨忍な眼光で見下ろした。


「今じゃチンケな金貸しなんかやってるが、この街じゃあこういう千載一遇のチャンスが不意に転がり込んできやがるから面白れぇ!! おめぇらはいくらになるかねぇ……?」


湿った舌先で唇を舐めまわし、おっさんの視線は後ろで倒れ伏す者たちへと這っていく。


「そこのペストマスクの女、実にそそる体をしていやがる。犬ガキは物好きの客に売れるな……金髪のガキもたっぷりと可愛がってからヴォルペに突き出してやるか」


粘着質な欲望を露わにし、ニチャニチャと卑小な優越感に酔いしれるおっさん。


「オラ! 意地を見せてみろよっ!」


おっさんはアルの血濡れた髪を力任せに引き上げ、トドメの鉄拳を叩き込もうと右腕を大きく後方へ引き絞った――その瞬間。


**シュンッ――ガチッ。**


空気を切り裂く、氷のように冷たい金属音。


スネアの袖口から、闇を滑る蛇のように鎖短剣が放たれ、夜気の中で鋭利な閃光を描いていた。


「……え?」


おっさんの口から、間抜けな呼気が漏れた。


振り上げていたはずの右手の指先――その関節から先が、まるで腐った枝でも折れるかのように、四本まとめてポロポロと石畳へ転がり落ちた。


あまりの刃の速さに、切断された痛覚すら脳へ届かない。肉の断面から遅れて、どっと鮮血の噴水が吹き出した。


「が……?」


欠損した己の手を呆然と見つめるおっさんの目の前で――髪を掴まれていたアルの頭部が、すっと持ち上がった。


血と泥に塗れた顔。だがその瞳の奥で揺らめいていたのは、死の淵から舞い戻った狂戦士の、血に飢えた異様な輝きだった。


アルは歪んだ口元から血をこぼしながら、惨烈な笑みを深める。


「……感謝するぜ、おっさん。眠気が酷かったからよぉ、良い眠気覚ましになったぜ」


**ドゥゴォオオンッ!!**


空間を破裂させるような踏み込みの衝撃音。


「動けない」はずだったアルの全身の筋力が、地を蹴る一瞬に凝縮され、砲弾となっておっさんの顔面へ一直線に突き刺さった。


鼻骨が叩き折れ、歯列が砕け散るグチャリとした感触。おっさんの巨体が自重を失って宙を舞い、石畳の上を何メートルも泥のように回転しながら転がっていった。


「おいおっさん……路上の伝説?なんだろ?」


アルは口内に溜まった血濁りをペッと石畳へ吐き捨てると、暗黒剣の柄を静かに握り直し、苦悶の悲鳴を上げて地面でのた打つおっさんを、絶対の絶望とともに見下ろした。


「まだ寝るんじゃぁあ、ないぜ?」


「あひぇ……っ!? (あれ……っ!?) な、なんれ……なんれうごひぇるの……!? (なんで動けるの……!?)」


潰れた顔面を血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡らし、おっさんは悪夢でも見るかのように目を剥いてアルを見上げた。


アルは冷徹な眼光を突き刺し、おっさんが先ほど吐き捨てた言葉を、その喉奥へそっくりそのまま叩き返した。


「ダンジョンや戦場じゃあな……腹が減ろうが、疲れてようが、熱かろうが、寒かろうが……それこそ手足が腐っちまうような極寒だろうがよ。敵も環境も、こっちの都合なんか一切待っちゃくれねぇんだよ」


暗がりの中で、アルの双眸が死神の如き冷気を放つ。


「路上じゃ待ってくれるとでも思ってたのかい? ……ほら、意地を見せてみろよ」


◇


それからほどなくして――。


顔面をドス黒く腫れ上がらせ、惨めな血の泡を吐き散らしながら、おっさんは冷たい石畳の上に正座させられていた。


「ぼ、冒険者証は……ヴォルペファミリーの連絡員に渡しましたぁ……っ! もう戻ってくることはないと思ったのれぇ……ッ!」


失った両手の指から血を滴らせ、潰れた唇をフガフガと歪ませて命乞いを重ねるおっさん。


「ち、地下水道の異常を察知して……治安維持部隊がやってくると思います……っ! 上層部の一部の連中はヴォルペファミリーが抱え込んでいますが……一、一般の隊員達のほとんどは、真面目にこの街の都市機能と治安維持のための職務に殉じておりますです、はいぃッ……!」


己の命と引き換えに、必死に吐き出される街の生々しい情報。


アルはその報告を退屈そうに聞き流すと、首の骨をカチリと鳴らした。


「じゃあ……おっちゃんはあんまり情報は持ってないって事だな。悪りぃな、そうかもなとは思ったけどよ」


アルの殺気を孕んだ瞳が、獲物を検分するように正座するおっさんを射抜く。


「相手をいたぶる事に快楽を得ているような胸糞悪ぃ奴は……俺以外の事は、俺は許せねぇタチでよぉ」


「自分は良いけど他人はダメって、とんでもねぇ自己中でやんすなぁ……。良心の呵責とか少しは持って欲しいもんでやんすねぇ」


横で呆れ果てたように深く溜息をついていたスネアが――次の瞬間、感情の失せた目つきのまま、一切の殺気も予兆もなく、袖口から細身の刺突武器(スティレット)をぬるりと滑り出させた。


まるで作業のように冷ややかな手つきで、そのまま正座するおっちゃんの頭頂部へ、脳幹を貫く角度で一突きに振り下ろす。


**パシッ。**


その冷酷な一撃を、アルの手が無言で間一髪、スネアの手首を固く掴んで受け止めた。


アルはスネアの刺突を封じたまま、暗い狂気を瞳に宿して低く吐き捨てる。


「……お前にだけは言われたくねぇよ。この悪童が」


己の頭髪の無い頭上で繰り広げられた「絶対の死」の気配を間近で察知し、おっさんは恐怖のあまり眼球を大きく裏返させた。


**「ヒィヤーーッ……!!」**


哀れな悲鳴とともに口から泡を吹き、崩れるように白目をむいてその場に卒倒するおっさん。


スネアはチッと短く不機嫌な舌打ちを鳴らすと、スティレットを手慣れた手つきで袖の中へ仕舞い直し、倒れ込んだおっちゃんの無防備な背中へ容赦なく蹴りを叩き込んだ。


**ドガッ!!**


勢いよく弾かれたおっちゃんは、顔面から盛大に湿った石畳へ突っ込み動かなくなった。


◇


気絶したエレノアをアルが乱暴に肩に担ぎ直し、ダイン一行は血とドブ水の匂いが立ち込める地下水道の出口を後にした。


雨上がりの冷気が肌を刺し、街灯の湿った光が濡れた石畳を幾重にも黒く光らせている。


メルカティの深部へと繋がる寂れた橋の上を、死の影を纏った足取りで歩く一行。


その時――漆黒の暗闇の向こうから、ガタゴトと規則正しく重厚な車輪の音が近づいてきた。


艶やかな塗りと金箔の装飾で飾られた、格式高い上質な馬車。


馬車はダインたちの横を少し通り過ぎたところで静かに滑るように停車し、その重々しい木製の扉が恭しく開かれた。


中から姿を現したのは、トマス商会の行商人――**ザンギエット**だった。


「おやっ! 皆さん、こんなところでお会いできるとは……! うっ、それにしても酷い恰好ですね!! ささ、中へお入りください!」


大袈裟に両手を広げ、心底悲しそうに眉をひそめて駆け寄ってくるザンギエット。


その親切さに対し、アルとスネアは血のついた顔にニカッと軽薄な笑みを貼り付けた。


「おっ、悪いねぇ! 疲れ切ってヘトヘトだったんで助かるぜぇ~」


「ひひっ、やっと一息つけるでやんすね~! ささ、ダインの旦那方もお早く!」


二人は一切の警戒を感じさせない足取りで、吸い込まれるように馬車の豪華な車内へと乗り込んでいく。


「お、おい……アル、スネア……」


あまりに不自然な遭遇にダインが重い眉をひそめて制止しようとするが、その太い腕に縋り付くリノが、濡れた耳を寒そうに小さく震わせながら見上げてきた。


「ダイン様……お外は冷えるので、早く入りたいですぅ……っ」


「……ちっ」


苦々しく舌打ちを漏らしつつも、ダインはリノの背を庇うようにして馬車のステップを上がった。


◇


ぽんと重厚な扉が閉まり、馬車が再びガタゴトと暗闇の中を走り出す。


天鵞絨(ビロード)のシートが敷き詰められた、暖かく甘い香りの漂う密室。


次の瞬間――車内の温度が、一瞬にして絶対零度まで暴落した。


「――っ!?」


ザンギエットの浮かべていた営業用の笑みが、ぴきりと引きつって固まる。


彼の皮膚が薄く切れ、血が滲むほどの精密さで、スネアの鋭利なナイフの刃が首元へ寸分違わず添えられていた。


そしてそのすぐ横では、アルが狭い馬車の中で大剣を肩に担ぎ、肉を食いちぎる瞬間の野狼のような冷たく澄んだ瞳でザンギエットを見下ろしていた。


さっきまでの「疲弊し切った無警戒な冒険者」の面影は、影も形もない。


アルは顔の血を手の甲で拭うと、黒い殺意を込めた笑みを口元に浮かべ、低く重い声で密室に囁いた。


「さて……都合よく現れてくれた親切なザンギエットさんは、何をどこまで知っているのかな?」

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