第53話:闇の傾聴者
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# 第53話:闇の傾聴者
**「ぶはぁッ……! ゲホッ、ゴホッ……!」**
地下水道の暗渠から吐き出されたダインは、濡れた鉄仮面を石畳に擦り付けるようにして、胸底のドブ水と血の混ざった泥を吐き出した。
身長二メートル半、九十キロを超える巨躯が、限界を迎えた鉄の塊のように重々しく打ち上げられている。未だ癒えぬ無数の傷口が冷たい地下水に塗れて苛烈に膿み、息を吸い込むたびに肺腔が焼けつくような痛みを訴えていた。
その傍らには、濡れそぼったトドのように川の字に倒れ伏すスネアと、魔晶石を腕に抱きかかえたまま微動だにせず気を失っているエレノアの姿があった。
「はぁ……はぁ……死の網の目を……くぐり抜けたでやんす……っ」
「うぅ……ダイン様ぁ……身体が……冷たいですぅ……っ」
極度の水嫌いであるコボルト族のリノは、濡れてペタリと頭に張り付いた犬耳を震わせ、ダインの太い腕の隙間にすがりつくように丸くなっていた。
少し離れた暗がりでは、アルが漆黒の大剣を石畳の亀裂に深く突き立て、それを支柱にしてかろうじて膝をついていた。頭巾の奥で肩を激しく上下させ、濁った息を吐き出す姿は、まるで墓場から這い上がってきた亡霊そのものだった。
全員が死線を潜り抜け、満身創痍という言葉すら甘いほどに疲弊しきっている。
そんな彼らの惨状を、暗渠の縁に縮こまっていた**金貸しの男**が、血の気の引いた顔で見下ろしていた。
――だが。
男の泥に汚れた目の中で、怯えの奥に潜んでいた血生臭い欲望が、ギラリと醜く萌芽する。
アルが力なく首をたてかけ、死熱を帯びた冷たい眼光で金貸しを射抜いた。
「おっさん……あんた、どこまで知っているんだ……?」
その声は掠れていたが、幾度も肉を削がれながら修羅場を越えてきた者だけが纏う、重苦しい「死の残香」が宿っていた。
金貸しの男は一瞬、その殺気に気圧されて背筋を凍らせた。しかし、眼前に転がるのは、今にも命の灯火が消えそうな傷病人の群れだ。男の浅知恵と計算が、恐怖を瞬く間に上書きしていく。
(ハッ……! こ、こいつら……中で何かやらかした重要参考人兼、お尋ね者の容疑者じゃねぇか……!? しかも、指一本動かすのも億劫なほど弱り切っていやがる……!)
ニチャリ、と金貸しの肥満した口元が、酷薄な蛇のように歪んだ。
「おいおい……俺はこの街で、テメェらが親父の金玉袋に居た頃から金貸しやって、荒くれ者どもを黙らせて来てんだぜ? そんなボロボロの弱った状態で、イキって聞いて良い状況じゃあ、ねぇよなぁ!?」
金貸しは懐から、鈍い光を放つ**【金色のメリケンサック】**を取り出すと、油の浮いた太い指先へカチリ、カチリと一つずつ嵌め込んでいった。
「ひとつ、礼儀のなってねぇガキには躾が必要なようだなぁ……。金になりそうなガキ共も連れてやがるし、ぶん殴るのはテメェだけにしといてやるぜ? 女どもの事は、あとは俺に任せな……ヘヘヘッ!」
骨を鳴らす鈍い金属音が、湿った地下道に空虚に響く。ハイエナが手負いのライオンを嘲笑うかのような、醜悪で滑稽な自惚れ。
アルの黒い瞳の底で、絶対の無関心と冷徹な殺意がゆらりと揺れた。
「てめぇ……」
―—―――――――――――――――
◇
――同時刻。
VIP会場の裏手、幾重もの防音魔導陣で遮断された暗いモニター室。
そこには、魔導通信の画面越しに溢れ出でる【死】の気配によって、呼吸すら凍りつくような厳粛な殺気が満ちていた。
画面に映し出されているのは、豪華でありながらも歴史の重みを漂わせる、昏い書斎の映像。
室内を照らすのはデスクの上に置かれた極小の魔導ランプひとつのみ。その淡い光の輪の中に、深く古めかしい革椅子にもたれかかる老人のシルエットが浮かび上がっていた。
ヴォルペファミリーの頂点――**ヴォルペ**。
画面越しであっても、その存在はまるで底なしの沼のように部屋全体の空気を重く沈殿させていた。幹部たちは血の気の引いた指先を震わせ、胸の動揺を隠すように生唾を呑み込んだ。
「――以上が、下水道研究所およびモーレッツ商会の現状にございます……」
古参の幹部が、己の喉を締め上げるような声で一通りの報告を終えた。
ヴォルペは深く椅子にもたれたまま、一言も発しない。その静寂は、雷鳴の前の不気味な凪のように幹部たちの精神を削り削ぎ落としていく。
その沈黙の苛烈さに耐えかねたのか、古参幹部の脇に控えていた若い幹部が、血迷ったように画面に向かって言葉を叩きつけた。
「ぶ、無念にございます、ヴォルペ様! すべてはルチアーノの独断と失態! 我々もまさか、下水道の全注水などという暴挙に出るとは思わず――」
保身のための見苦しい弁明。動揺に乱れる心拍数。
ヴォルペはそれすらも、ただ静かに聴いていた。
――だが。
幼少期に光を奪われて以来、ヴォルペの耳は他者の精神の揺らぎや脈動の雑音すら聞き分ける、異様なまでの【聴覚の狂気】を研ぎ澄ましていた。
彼にとって、自己弁護の濁った声音や、保身に走る醜悪な感情の揺れは、鼓膜を削る耐え難い『不快なノイズ』でしかない。
老人はすっと、枯れ木のような細い指を立てると、画面の向こうの若い幹部を寸分の狂いもなく指さした。
「……殺せ」
「え――」
若い幹部が素頓狂な声を漏らした、次の瞬間だった。
ガタガタと身体を激しく震わせると、瞳から急速に光彩が失われ、若い幹部は崩れ落ちるように床へ倒れ伏した。
通信室の暗がりから、闇を切り取ったかのように一人の暗殺者が音もなく佇んでいた。その手には、鋭利な刺突用のアイスピックが握られ、若者の脳幹を一突きで精密に貫いていた。
「ヒッ……!!」
古参幹部は失禁しそうになるのを必死に堪え、己の口を両手で強く塞いで悲鳴を押し殺した。
「……見苦しい音を立てるな」
画面の向こうから、冷たい氷脈を滑り落ちるようなヴォルペの声が響く。
「失態はよい。だが、言い訳というノイズは耳を汚す。……マーガリントはどうしている」
「は、はいッ! マーガリントは現在、ステージ上にて貴族達の不満を抑え込もうと……必死に場を繋いでおりますッ!」
―—――――――――――
◇
一方、地上に位置するVIPオークション会場のステージ。
「ひぃいっ!? 本日3回目のグラス投擲!! お見事にございまスッン!!」
飛んできた高級ワイングラスを間一髪でかわしながら、マーガリントは滝のような油汗を流し、惨めな道化のように甲高い悲鳴を上げていた。
「ふざけるなマーガリント! 『新作のボルツ』に賭けた俺たちの金貨はどうなる!!」
「カインだかなんだか知らんが、そんな餌共のポーション(スターダスト)など後回しだ! ノラ犬どもの首を見せろッ!」
最前列の腐敗貴族や裏社会の巨頭たちは、欲望を反故にされた苛立ちから狂暴化し、罵詈雑言の嵐をステージへと投げつけていた。マーガリントの膝はガタガタと震え、手にしたガベルを握る指は汗で滑っていた。
(だ、ダメだ……! 俺の手に負える限界を超えている……ッ!!)
マーガリントが絶望に白目をむきかけた、その時――。
**ゴオオオオン……――――!!**
会場全体の金箔を照らしていた眩い魔導ランプが一瞬にしてすべて途絶え、漆黒の暗闇が広場を包み込んだ。
「な、なんだ!?」
「停電か!?」
動揺と悲鳴が錯綜する中――ステージ上部の巨大な魔導スクリーンに、ぽっと静かな青白い光が灯った。
そこに映し出されたのは、昏い書斎の椅子に深く腰掛ける、一人の老人のシルエット。
その影を目にした瞬間、あれほど荒れ狂っていた貴族たちが、まるで首筋に氷を突きつけられたかのように、一斉に息を呑んで静まり返った。
「……VIPの皆様方。無様な醜態をお見せしたことを、お詫び申し上げよう」
ヴォルペの掠れた、だが骨の髄まで浸透するような絶対の重圧を伴う声が、音響魔導具を通じて空間全体を支配した。
「しかし……ご安心いただきたい。本日お見せした混乱は、すべて我がヴォルペファミリーが用意した『特別プログラム』に過ぎない」
ヴォルペの口元が、暗闇の中で不気味に歪む。
「最新兵器や『新作のボルツ』が、想定外のイレギュラー――あの忌々しくも強靭なノラ犬ども相手にどこまで持ち堪えられるか。その耐久テストをお見せしたまでのこと」
息を詰める貴族たち。ヴォルペは破滅的な損害すらも、悠然と自らの手掌の上の『興行』へと昇華させてみせたのだ。
「さて……本日のメインイベントは、これからだ。あの生きて這い上がってくるであろうバケモノたち……彼らこそが、次回のオークションの『極上の標的』となる」
ヴォルペの細い指が、スクリーン越しに提示される。
「今この瞬間より、あのノラ犬どもの首に莫大な懸賞金を懸ける。……誰が彼らを狩るか、あるいはどこまで生き延びるか。どうぞ、存分にお賭けいただきたい」
恐怖と苛立ちに満ちていた会場の雰囲気が、一瞬にして禍々しい『狂熱』と『餓死寸前の野獣の欲望』へと塗り替えられていく。
裏社会の真の支配者は、被った損害すらも最高額のゲームへと変貌させ、ダインたちへ向けて血塗られた包囲網の引き金を引いたのだった――。




