第51話:欲望
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# 第51話:欲望
**ギィ……ガガガガッ……!**
重厚な黒鋼の二重扉が、死者の呻きのような重い悲鳴を上げて開け放たれた。
そこに広がっていたのは、これまでの激しい水音や鉄の匂いが嘘のような、不気味なほどに冷ややかな**『無音の空間』**だった。
足を踏み入れた瞬間、ツンと鼻腔を刺す異様な薬品と硝石の刺激臭が充満している。
部屋の天井まで届く巨大なガラス管がズラリと立ち並び、緑色の不気味な培養液の中には、抽出と合成の過程で切り刻まれた冒険者たちの『失敗作』が、まるで死んだ魚のようにプカプカと漂っていた。
「ひっ……! 侵入者だ!!」
「どこから入ってきた!? 警備兵、何をやっている!!」
突如として破られた扉に、白衣を着た下級研究員たちが悲鳴を上げて書類を撒き散らす。即座に、重装アーティファクトで身を固めたヴォルペ直属の護衛兵三人組みが、殺気を放って大剣と魔導銃を構えた。
緊迫した殺気が充満し、今にも刃が交錯しようとした――その時。
「やあやあ、静かにしてくれたまえ、諸君。今、大事なデータの記録中なんだ」
静かな、だが嫌に響く軽薄な声が室内を制した。
白衣を薬品と血で汚し、異様な丸眼鏡をかけた男――研究所長**ルチアーノ**が、手帳にカリカリとペンを走らせながら振り返る。
「……こんなの……人間を……なんだと思っていやがる……ッ!」
アルが大剣の柄を固く握りしめ、頭巾の奥で低く掠れた声を漏らした。
その部屋の最奥――冷たい金属の拘束台に横たえられていたのは、光を削ぎ落とされたうつろな瞳で天井を仰ぐカインの姿だった。全身にはスキルを根こそぎ剥ぎ取られた黒い刻印が、爛れた皮膚の上に生々しく焼き付けられている。
その隣では、異形受胎の不気味な魔導装置に繋がれたミラが、死を待つ小動物のように苦しげな浅い息を繰り返していた。
「カイン……! ミラ……!!」
ダインの胸の奥で、ドス黒いマグマのような殺気が爆発する。鉄仮面の奥の瞳が赤く爛々と燃え上がり、重い足取りで踏み出した。
「……テメェが……この惨劇の元凶か。ヴォルペの忠犬が……ッ!」
ダインが拳を握りしめ、地鳴りのような低音で咆哮する。だが、ルチアーノは怯えるどころか、可笑しそうに丸眼鏡の奥の目を細めた。
「忠犬? ハハハ! おかしなことを言うねぇ! あんな盲目で病弱な金貸しに
忠誠なんて誓うわけがないだろう? 彼は私の研究に莫大な資金と『新鮮な検体』を提供してくれる、ただの便利な財布だよ。『真人になれる』と夢を見せておけば、喜んで金を出すからねぇ」
悪びれもなく言い放つルチアーノ。ダインの鉄仮面の奥から、溢れ出るほどの殺気が部屋の空気を圧迫する。
「……自分のパトロンすら実験道具か。どこまでも腐ってやがる」
「腐っている? ハハハ! 勘違いしないでくれたまえ。
私はただ研究がしたいだけだよ。
君たちは己の行いが新鮮で美しい神聖な物だと思っているのかな…?
正義感という快楽に酔いしれているようだが……この施設が何によって回っているか分かっているのかい?」
ルチアーノは広大な研究所と、その下を流れる巨大な排水機構を指差した。
「この地下研究所は、メルカティの裏経済を支える心臓部であり、同時にこの都市全体の地下水利を調整する『臓器』そのものだ。ここを壊せばどうなる?
明日から市民はドブ水に塗れ、裏社会の流通は止まり、経済は麻痺する。
……君たちは己のちっぽけな良心を満足させるためだけに、メルカティ数万の市民の暮らしを壊すのかい?」
朗々と正論の皮を被った詭弁を宣うルチアーノ。
だがその時、ペストマスクの奥で小さく息を呑んだエレノアが、抑えきれない怒りを込めて叫んだ。
「……狂っているわ……! ルチアーノ!!」
その声を聞いた瞬間、ルチアーノの動きがピタリと止まった。
丸眼鏡のレンズが不気味に光を反射し、彼はまじまじとエレノアの姿を見つめると、ぱっと顔を輝かせた。
「おやっ? 君、もしかして……その声……おやおや、君! エレノア君じゃないか!! 久しいねぇ!!」
ルチアーノは歓喜したように両手を広げ、弾んだ声を上げる。
「いやあ、君が帝国から姿を消した時は実に残念だったんだよ! 君の執筆した
『スキル異体移植理論』……あれは実に美しく、先進的だった。
君ほどの素晴らしい頭脳を持つ若者が追放されるなんて、科学界にとっての甚大な損失だと心から惜しんでいたんだ!」
「黙りなさい……! 私の論文を、こんなおぞましい人体実験に悪用するなんて……ッ!」
激怒して叫ぶエレノア。しかし、ルチアーノは嘲笑うように不気味に口元を歪めた。
「おや、白々しい。君もこちら側の人間だろう、エレノア君? あの論文の端々に滲み出ていた『未知への狂おしい渇き』の産声を、私は聞き逃さなかったよ。君も喉から手が出るほど欲しいはずだ――私が完成させたこの『適合拒絶の克服データ』がね」
「私は……私は人を助けるために……ッ!!」
エレノアが言い終えるより早く、ダインが一歩を踏み出した。
「能書きは終わりだ……! ぶち殺すッ!」
「おっと、私が君の暴力を受け止められるはずがないだろう?
暴力沙汰は専門外でね。――護衛の諸君、私を上部脱出路まで安全に送り届けてくれたまえ」
ルチアーノはフッと鼻で笑うと、足元の赤いレバーを迷いなく引き下ろした。
**ガラガラガラガラッ――――!!**
天井と壁面の巨大な主排水隔壁が、重い悲鳴を上げて開放された。
**『――警告。水没(注水)プロトコル起動。……地下水道の全水量を流入させます――』**
ゴォオオオオオオオオオッ!!と、地鳴りのような重低音が響き渡り、壁の亀裂から黒く濁った地下水脈の冷水が、瀑布となって噴き出し始める!
「なっ……!? 水没だと!?」
「ではね、諸君。君たちの高尚な正義とともに、冷たい水の底で眠るといい」
ルチアーノは重装の護衛兵三人従え、自分専用の上部避難ハッチへ滑り込むと、内側から重い鉄扉をガチャリとロックした。
「し、所長!? 待ってください! 俺たちは……俺たちはどうなるんですか!?」
「開けてくれ! 開けてくれ、ルチアーノ様ぁッ!!」
置き去りにされた数人の下級研究員たちが顔を蒼白にし、ハッチへ群がって鉄扉を叩きつける。だが、返事は冷たい金属音のみ。
「騙された……! 俺たちは捨て駒かッ!」
「脱出路へ走れ! 俺を押し倒すな、どけぇッ!!」
パニックに陥った研究員たちは、ダインたちに目を向ける余裕すらなく、我先にと唯一残された非常階段の狭い扉へ殺到し、醜い押し合いと絶叫の渦を巻き起こした。
◇
**ザババババババッ!!**
急速に跳ね上がる水位。足首を打っていた冷水は、あっという間に膝を没し、太ももへと迫る。
緑色の不気味な液体の入ったガラス管が水圧で次々と爆裂し、浮遊していた失敗作の肉片が、黒い濁流に混ざり込んで浮き沈みした。
「ちっ……! 水で埋め立てて証拠ごと沈める気かよ! スネア、早くしろ!」
「任せるでやんす! だがこの魔導ロック、無理に破るとカインの身体に毒が回る……ッ!」
スネアが跳ね上がる水飛沫を全身に浴びながら、指先を血に染めて精密な解錠工具を動かす。
「エレノア、行くぞ!!」
アルが叫んだ、その時――。
「待って……! 待ってちょうだい!!」
エレノアは濁流を力任せに押し分けて、水没しかける制御卓へと一目散に飛びついていた。
「エレノア先生! なにやってるでやんすか、腰まで水が来てるでやんすよ!」
「この研究データ(魔晶石)を回収しないと駄目なのよ!! これがないと……カインさんやミラさんの身体に刻まれた術式を解読できないわ! 二人を助けるための……解毒と治療の手掛かりになるの!!」
悲痛な声で叫びながら、水没しかける端末から術式結晶を力任せに抜き取るエレノア。
――だが。
ペストマスクの暗がりの中。
結晶を掴んだ彼女の指先は、恐怖や焦りからではなく、**喉から手が出るほど欲しかった『禁断の至高データ』を掌中に収めた歓喜によって、狂おしく震えていた**。
(素晴らしい……! なんて美しく洗練された術式配列……!
私が理論上でしか描けなかった異体適合の拒絶反応の抑制……! ヴォルペとルチアーノはここまで完成させていたなんて……!)
彼女の瞳は、傷ついたカインたちへの同情などではなく、
**禁断の果実の毒に酔いしれるマッドサイエンティストの知的好奇心で、爛々と怪しく輝いていた**。
彼女にとって「カインたちの治療」は、この至高の成果を自分の手中に収めるための、あまりにも完璧で美しい『正当化の盾』に過ぎない。
「外れたでやんすッ!!」
スネアの叫びとともに、拘束具が弾け飛ぶ。
「よし、二人を担ぐぞ! 走れぇッ!!」
首元まで迫る迫真の濁流の中、ダインがカインを、アルがミラを力任せに抱え上げた。
激しい水流が渦を巻き、足場を奪おうとする中、彼らは崩れゆく水没通路へと、命を賭して蹴り出したのだった――。
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