第48話:冷たい刃
第48話:冷たい刃
——時間を少しだけ、遡る。
ゴボッ……ゴボボッ……!
(……あ? ここは……水の中、か……?)
肺腑を灼くような息苦しさの中、アルの意識は急速に覚醒へと引き戻された。
激流の中、ドーム状の水牢で足をすくわれ、黒い巨影に噛みつかれたことまでは覚えている。
だが、噛み砕かれて死んだわけではなかった。
ゴォッッ!!
水底から水面へ向けて、アルの身体が猛烈な水圧とともに打ち上げられた。
ザッパァァァンッ!!
水面を突き破り、宙へと放り出される。
肺にわずかな空気を吸い込もうと口を開きかけた、まさにその瞬間だった。
巨大な影が、水面からイルカのように高く跳躍した。
黒い流線型の巨躯——シャドウオルカだ。
空中で器用に身を翻したオルカは、獲物を弄ぶクジラのように、
その分厚い頭部をハンマーめいて振り下ろし、アルの腹部へと豪快な頭突きを叩き込んだ。
ドゴォッッッ!!
「が……はッ!?」
内臓をひっくり返されるような衝撃。
ボールのように叩き落とされたアルは、再び激しい飛沫を上げて濁水の中へと叩きつけられた。
ドボンッッ!!
水泡が視界を白く染める。
シャチが狩りの際、アザラシを空中に跳ね上げて弄び、
じわじわと体力を奪って嬲り殺す習性。
この人工キメラの頭脳には、その下劣で残虐な捕食本能が刻まれていたのだ。
濁水の中で、オルカが剃刀のような牙を剥き出しにし、嘲笑うかのように尾びれを振って接近してくる。
(……けっ。トドかイルカの真似かハッキリしやがれっ……!!)
朦朧とする酸欠の頭の中で、アルの双眸に獰猛な闘志がギラリと灯った。
大剣を握る右手。
その切っ先を、濁水の中で円を描くように滑らせる。
「——【暗黒外装召喚】」
ブワッ、と水中で黒煙のような魔力が噴き上がった。
次の瞬間、アルの全身を禍々しい漆黒の魔装鎧が包み込む。
水圧を押し返す重厚な防御力。
だが——アルの脳裏に、心臓に悪い警告が響き渡った。
【MP:120 ➔ 119 ➔ 118→117……急激に減少中】
(ふざけんな……ッ! チョッ、待てよオイ!!)
勉強も座学も大嫌いな元傭兵のMPは、もとよりスズメの涙ほどしかない。
全身に魔装を展開しただけで、ゲージが目に見える速度でゴリゴリと削られていく。活動限界まで、もって一分か二分だ。
そこに、空気を読まない濁流が押し寄せる。
オルカの合図とともに、周囲を取り囲んでいた十数匹のマーマンキメラたちが、
鋭利な骨爪を突き立てて一斉に群がってきた。
ガチガチ、と魔装鎧の表面を削り、水底へ押し込めようと執拗な波状攻撃を仕掛けてくる。
魔装を召喚してカッコよく決めた直後に、タコ殴り。
アルの脳内で、プツンと何かが千切れる音がした。
「ふざけんな……ッ!! ここからは……ッ!!」
ゴボゴボと気泡を吐き出しながら、アルは血走った瞳を剥き出しにして吠えた。
「俺の番だろうがァァァッ!! ブッ殺す!!!!」
激怒の咆哮。
その瞬間、シャドウオルカが嘲笑うかのように正面から突進してきた。
ドゴォッ! と腹部に食らった猛烈な体当たり。
水流の抵抗を受け流せず、アルの身体は錐揉み回転しながら、
水牢の分厚い石壁へと猛スピードで吹き飛ばされる。
激突すれば、魔装ごと背骨が砕ける速度。
だが——アルの全身から、爆発的な黒いオーラが噴き上がった。
(殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すッ!)
激突の寸前。
アルは柔軟に身体を反転させると、両足の裏をガチィィンッ! と石壁に密着させた。
水泳選手がターンを決める、あの要領だ。
壁を蹴る。
爆薬を仕込んだかのような脚力と魔装の反発力で、
水底を滑るように前へと弾け飛んだ。
同時に、両手で構えた無骨な剛剣を激しく旋回させ、刃に漆黒のオーラを渦巻かせる。
群がってくるマーマンキメラの群れ。
アルは避けない。
向かってくるマーマンの頭部や胴体を、大剣の分厚い腹で『オールの如く』力任せにぶん殴った。
バキィッ! ドゴォッ!
叩き潰されたマーマンが弾け飛ぶたび、
その強烈な反作用でアルの突進速度が跳ね上がっていく。
一匹叩くごとに加速。二匹叩くごとに倍加。
三匹目を粉砕した瞬間、アルの身体は水棲生物をも凌駕する『黒い魚雷』と化していた。
留まる事を知らない殺意の肉薄にシャドウオルカは身を翻し、距離を取ろうとしている。
(逃がすわけねぇだろ……デカブツがァッ!!)
視界の先、驚愕に目を見開いたシャドウオルカの喉元。
アルは両腕の筋肉を限界まで膨張させ、全闘志を込めた剛剣を振りかぶった。
刀身に渦巻く漆黒のオーラが周囲の海水ごと光を貪り喰らうように収束していく。 水圧すら押し潰すほどの極大な闇の刃が、深海の底で異様な脈動を刻んだ。
「消し飛びなァッ!! 『深淵断罪』ォォッ!!」
【暗黒外装・臨界駆動――】 【スキル『深淵断罪』を発動しました】
振り下ろされた剛剣の軌跡に沿って、
空間そのものを切り落とすかのような漆黒の断層が奔る。
渾身の一撃が、オルカの眉間から喉首へと叩き込まれた。
ズッッッッッッバァァァァァァァァンッッ!!!!
水中で放たれたとは思えない破壊の轟音。
オルカの巨躯が両断されると同時に、
凄まじい衝撃波の余波が水流を真っ二つに引き裂いた。
モーゼが海を割ったかのように水圧が四方へ爆散し、ドームの石壁と天井に蜘蛛の巣のような巨大な亀裂が走り抜ける。
——そして、奇跡のようなタイミングが重なった。
遥か頭上、ホールの中心で炸裂したダインの【オーバードライブ】。
底の排水弁が粉々に砕け散り、ゴオオオオオッ! と凄まじい吸引音とともに、充満していた濁水が一気に引き波となって穴へと吸い込まれていく。
ザザザザァッ……!
水深数メートルあった濁流は、瞬く間に引いていった。
水が去った石畳の上には、アルの一撃と水圧で内臓を破滅させられ、
瀕死で横たわるシャドウオルカの巨体と、手足を痙攣させるマーマンたちの残骸が転がっていた。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ、ゲホッ!」
アルは全身を包む暗黒外装の面頬の隙間から、ゴボリと濁水を吐き出した。
兜のスリットから激しい呼気と蒸気が吹き上がり、甲冑の黒鉄に付着した水滴を乱暴に払う。
大剣の切っ先を地面に突き立て、足元でピクピクと痙攣しているシャドウオルカを見下ろす。
その時だった。
「……ッ?」
アルの視線が、オルカの半開きになった口腔の奥で縫い止められた。
裂けた顎の肉の隙間。
そこに埋め込まれていたのは——青ざめ、皮膚がただれた、人間の男の顔だった。
『タ……スケ……テ……』
男の顔球が、白濁した瞳をアルへ向けていた。
喉の奥から、ヒューヒューと掠れた笛のような息が漏れる。
『ク……ルシ……イ……タスケ……テ……』
それだけではない。
周囲に転がるマーマンキメラたちもまた、胸元や背中に、苦悶の表情を浮かべた人面がグツグツと生体融合されていた。
スラムで攫われ、薬物を打たれ、魔獣の肉体と無理やり縫い合わされた犠牲者たちの成れの果てだ。
悪趣味。
外道。
人の尊厳を踏みにじる、
あまりにも悍ましい狂気の産物。
普通なら、吐き気を催すか、絶句して立ちすくむ光景だろう。
だが——アルの表情から、一切の感情が消え失せていた。
先ほどまでの軽薄さも、MP切れへのボヤキも微塵もない。
元Aランク傭兵として、数え切れない死線と人間の醜悪さを見てきた男の、ひどく冷たく、乾いた瞳だった。
「……悪いな」
アルは静かに大剣を持ち上げた。
その切っ先には、躊躇も、哀れみによる甘さも一切ない。
肉体も魂も壊れ、二度と人には戻れないと瞬時に見切ったプロの冷徹さ。
「てめぇらはもう、助けられねぇ」
ヒュンッ——と、空気を断つ鋭い風切り音。 剛剣が横薙ぎに一閃した。
滑らかに、オルカの口元に埋め込まれた人面と、周囲のマーマンたちの首が跳ね飛ばされる。
苦痛の喘ぎ声は絶え、濁った血だまりの中に、静寂だけが戻ってきた。
アルは大剣を軽く一振りし、刃の血糊を払うと、静かに呟いた。
「ぶっ殺すって決めた以上、俺の行動は既に決まっているんだぜ」
プシューッ……と、熱い蒸気のような黒煙が立ち上る。
時間制限を迎えた漆黒の魔装鎧が粒子となって霧散し、
びしょ濡れでボロボロに引き裂かれた怪盗マントと、
目元からずり落ちそうな黒頭巾——その下の年季の入った革鎧姿へと戻った。
「……げほっ、クソが。せっかくの変装マントもズタズタだ……MPも空っぽだし死ぬほど疲れたぜ……」
大剣に体重を預け、肩で激しく息を吐くアル。
その胸元には、先ほどの冷酷な殺し屋の気配は消え、
いつもの金欠で軽薄な冒険者の横顔が戻りつつあった。




