第46話:白銀の幻影と、昏き水底
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第46話:白銀の幻影と、昏き水底
水底の冷気は、いつしか皮膚を切り裂くような「白銀の氷風」へとすり替わっていた。
肺腑を満たす重苦しい暗黒の底で、薄れゆく意識の輪郭が曖昧にほどけていく。
思い出すのは、自らの原点。
まだ濁った血と金に魂を売り渡す前、泥臭い理想と青臭い正義を信じていた頃の、遠い記憶の残滓だった。
――視界を埋め尽くす、果てしない白。
帝国北部、極寒の山嶺地帯。
命の存在を拒絶するような猛吹雪の中、帝国軍から下された任務は、前線維持のための『強行威力哨戒』だった。
地図の余白を埋めるためだけに駆り出された、捨て駒同然の斥候部隊。
五名で編成された小隊は、峻烈なブリザードと雪中魔獣の奇襲によって散り散りに削られ、生き残ったのは、自身を含めてわずか三名だけだった。
指先の感覚はとっくに失われ、吸い込む呼気は肺を内側から凍りつかせる。
重い鉄鎧を引きずり、意識が途切れかけた金髪の青年は、吹き溜まりの雪原へとどう倒れ込んだのかすら覚えていなかった。
(ああ……ここで、終わりか……)
白く濁る視界。冷たい雪が頬を埋めていく。
帝国の軍規も、戦功も、故郷の風景も、すべてが凍てつく虚無へと溶けていくはずだった。
――その時だった。
「…………っ?」
雪を踏みしめる、かすかな乾いた音。
死を覚悟した青年の薄開きの瞳の先に、小さな人影が二つ、雪煙を割って現れた。
銀糸を織り成したような純白の髪。
寒風に赤く染まった頬。
そして、雪原の冷気をすべて浄化してしまうかのように澄み渡った、瑠璃色の大きな瞳。
スノーエルフの子供たちだった。
帝国では「人ならざる者」「従わぬ蛮族」と教え込まれていた亜人の血筋。
だが、青年の胸ぐらを掴んだのは敵意でも略奪の刃でもなかった。
小さな手。
雪焼けした華奢な指先が、凍死しかけていた青年の分厚い軍手の上に、おずおずと重ねられたのだ。
邪念など毛頭ない、ただ「目の前で消えかけている命」を純粋に案じる、あまりにも透明な視線。
子供たちは顔を見合わせると、甲高い声で奥の雪山へ向けて合図の口笛を鳴らし、懸命に青年の身体を雪から掘り起こそうと小さな腕を伸ばした。
……次に瞼を開いたとき、青年を包んでいたのは『熱』だった。
パチパチと爆ぜる乾いた薪の匂い。
獣脂を灯したランプの柔らかな琥珀色の明かり。
幾重にも重ねられた分厚いトナカイの毛皮の温もりが、感覚を失っていた手足をじわじわと解きほぐしていく。
「……気がついたか、旅人」
粗末なフェルトの天幕の中、椀を差し出してきたのは、皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべたスノーエルフの老遊牧民だった。
差し出された椀からは、乾燥肉と野草をじっくり煮込んだ、湯気立つスープの匂いが立ち上っている。
言葉は完全には通じなかった。
帝国の共通語と、彼らの古い部族語。
しかし、そんな隔たりなどどうでもいいほどに、彼らの手つきは優しく、眼差しは温かかった。
生き残った二人の部下もまた、天幕の隅で手厚い介抱を受け、深い寝息を立てていた。
本来ならば、帝国領を侵犯する敵性種族として刃を向けてもおかしくない立場のはずだった。
それなのに、彼らは見返りなど何一つ求めず、冬を越すための貴重な食料を分け与え、凍傷で黒ずみかけた青年の四肢を温かい油で丁寧に揉み解してくれたのだ。
子供たちが、珍しそうに青年の金髪を指先でつつき、目が合うと悪戯っぽく笑って逃げていく。
その屈託のない笑顔を見つめながら、青年はスープの温もりを両手で包み込み、胸の奥が熱く焼けるのを感じていた。
(人間種だとか、亜人種だとか……そんなものは、何の壁でもねえんだな……)
国境線も、帝国の法も、血の違いすらも関係ない。
飢えれば痛く、温もりに触れれば安らぎ、誰かを救いたいと願う心がある。
人間以外の種族であっても、自分たちと何ら変わりはない。
言葉の壁を越えて、心を通わせ合える同じ『命』なのだと。
この雪原の温もりこそが、過酷な戦場を生き抜くための、己の唯一の矜持になるはずだった。
あの残酷な『裏切り』と『業火』が、すべてを焼き尽くすまでは――。
◇
……ごぼり、と。
暗い泥水が喉を塞ぐ音で、温かな白銀の記憶は一瞬にして霧散した。
再び押し寄せる、地下水道の濁流と生臭い腐臭。
意識の深淵へ引きずり込まれながら、男の意識は冷酷な闇へと沈んでいくのだった。




