第45話:閃光の解体・消えた剛剣
第45話:閃光の解体・消えた剛剣
闇を切り裂いたのは、鋭利な鉄と鉄が噛み合う、硬質な破裂音だった。
カアンッ! カカカカカアンッッッ!!
天井に這う錆びた排水本管に爪先を引っかけ、身を逆さに吊るしたスネアの両手が、肉眼では追えぬ残像と化していた。二振りの投げナイフの柄が、まるで精密機械のピストンめいて、無慈悲に鉄管の腹を叩き続ける。
空気の数百倍の質量を持つ水という流体は、音の伝播において狂気じみた増幅器となる。 エレノアの解き明かした物理の理は、水面下において文字通り『見えざる鉄槌』となって炸裂した。
「ギチッ……!? ギィッ、ギャオォォォオッッ!!」
濁水を切り裂いていた黒い紡錘形が、突如として激しくのたうち回った。
額のメロン体——水中の微かな揺らぎを音波で捉え、
周囲の空間をミリ単位で脳内に結像させていたシャドウオルカの感覚器官が、
全方位から乱反射する金属音の暴虐によって根底から破壊されたのだ。
それは、暗闇で目を凝らしていた者の眼前で閃光弾を炸裂させたに等しい。
方向感覚を完全に焼き切られたオルカは、
白泡を噴き上げながら自ら石壁へと頭部を激突させた。
その周囲を取り囲んでいたマーマンキメラたちもまた、鼓膜の奥を穿たれたかのように両手で頭を抱え、濁った泥濘の中で狂乱の痙攣を繰り返している。
「今よ、ダインさん!!」
冷水に肩まで浸かり、歯の根を鳴らしながらも、エレノアの叫びには迷いがなかった。 恐
怖に支配された獣の視界から、
理性を手放さぬ人間の観測眼が
勝機の糸を正確に手繰り寄せていた。
(……底へ、沈む……!)
ダインは水底の泥を蹴った。
向かうは、巨大なホールの心臓部——濁水が渦を巻き、暗黒の口を開けている排水弁の直上。
かつて四百五十キロの質量を誇った肉体は、
いまや龍毒に削ぎ落とされ、骨と皮を合わせた九十キロ足らずの軽さしかない。
激流の抵抗に煽られ、先ほどまでは木の葉のように翻弄されていた巨躯。
だが
——渦の真上に足を踏み入れた瞬間、世界が反転した。
ズドォォッ……!!
底なしの暗黒へと引きずり込もうとする猛烈な水流の吸引圧。
それが、軽すぎたダインの足裏を
万力のごとき吸着力で石畳へと縫い留めたのだ。
浮き上がるはずの肉体が激流そのものの質量を借りて、大地に根を張る巨木へと変貌する。
肺魚の呼気が肺腑の奥で冷たく冴え渡り、
水流感知の神経が、濁水の中をもがくオルカの死角を、目に見える軌跡として
ダインの網膜に焼き付ける。
深く、静かに、右腕を引く。
(外骨格の再生は追いついてねぇ。……だが、一撃なら保つ)
肘から手首にかけて走る黒い鱗の裂け目から、
燻るような黄金の粒子が漏れ出した。
龍毒が神経を灼く激痛を、
ダインは奥歯を噛み締めて力尽くでねじ伏せる。
狙うは、狂乱する海獣ではない。 己の足元——この巨大な水牢の底を塞ぎ止めている、分厚い鋳鉄の巨大ハッチだ。
「……吹き飛べッ!」
【オーバードライブ・インパクト】——解放!
水中で炸裂した黄金の打撃は、非圧縮流体である水を媒介にし、減衰することのない純粋な衝撃波の塊となって全方位へと牙を剥いた。
ドッッッッゴォォォォォォンッッッ!!!!
重低音という言葉すら生ぬるい。
鼓膜ではなく、内臓そのものを素手で握り潰されたかのような水圧の衝撃が、ドーム全体を底から突き上げた。
数トンの水圧に耐え続けていた巨大な鉄の閂が飴細工のように圧折し、分厚い鋳鉄の弁が粉々に砕け散る。
直後。
ゴオオオオオオオッッッ!!!!!
深淵の怪物がその顎を開け放ったかのような、凄まじい吸引の咆哮が轟いた。
溜まりに溜まっていた数千トンの泥水が、砕け散った巨大な排水孔へと、一筋の巨大な渦となって雪崩れ込んでいく。
一メートル半を満たしていた水位が、見る見るうちに下がり始めた。
水面が激しい引き波となって足元を洗う程度にまで落ち込むのに、
一分とかからなかった。
「ふ、ふぅ……っ! 水が引いたでやんす!」
「ゲホッ……! 助かった……のね……」
濡れ鼠になったスネアが配管から身軽に着地し、
エレノアは膝をついて荒い息を吐き出した。
ドームの石舞台の上には、水を奪われた巨大なシャドウオルカの一頭が横たわり、
水底の衝撃波を直撃した内臓を破裂させ、すでに事切れていた。
「……ふぅ。なんとかなったか」
ダインは濁った呼気を吐き出し、右腕の黄金光を収めると、重い肩からふっと力を抜いた。
龍毒に蝕まれた骨と皮の肉体にとって、水流に逆らいながらのスキル行使は、文字通り寿命を削るような重労働だった。
張り詰めていた糸が切れ、全身の筋肉が脱力した
——その、刹那。
「グガァァァァァッッッ!!」
死臭の漂う床の上で、もう一頭の黒影が跳ね上がった。
頭部を激突させ、血の泡を吹き、半ば死に体となっていたはずの
第二のシャドウオルカ。
だがその獰猛な獣性は、死の淵にあってなお潰えていなかった。
剥き出しの剃刀の牙を濡れた大気へ晒し、
強靭な尾びれで石畳を砕き割りながら、
ダインの無防備な喉首めがけて、弾丸のような初速で宙を翔けたのだ。
「しまっ……!?」
間合いは、わずか三メートル。
脱力していたダインの反応は、半拍遅れた。
腕を交差させようとするが、【オーバードライブ】の再充填が間に合わない!
その時だった。
ビシュッ! ビシュシュシュンッ!!
空気を切り裂く甲高い金属音とともに、閃光のごとき鋼鉄矢が四本、寸分の狂いもなくオルカの剥き出しの眼球と鼻腔へ吸い込まれた。
「ギャルルッ!?」
突進の軌道が、激痛によってわずかに外側へと逸れる。
寒さに震えていたはずのリノが、
濡れた前髪の隙間から絶対零度の視線を放ち、
限界まで引き絞ったボウガンを撃ち抜いていた。
だが、数トンの巨体が持つ突進の慣性は殺しきれない。
ダインの眼前、あと数十センチにまで迫った剃刀の顎——そこへ。
水たまりをスケートのように滑走しながら、『一条の影』が音もなく割り込んできた。
スネアだった。
小柄なハーフリングは、両手に抜いた異形の二振りのナイフを逆手に構えていた。 その足運びには、一切の迷いも、一切の無駄もない。
シュパパパパパパパパパッッッ!!!
肉を断つ音ではなかった。
それは、熟練の職人が研ぎ澄まされた鋏で、一息に上質な絹布を裁ち切るような——あまりにも軽やかで、恐ろしいほどに滑らかな飛沫の音だった。
交差する刃の軌跡が、オルカの巨躯の表面に幾何学的な光の網を描き出す。
分厚いゴム状の外皮を撫で、関節の隙間を滑り、腱の結び目と骨の継ぎ目を、寸分の狂いもなく切り離していく。
力で押し切るのではない。
構造を知り尽くした者が、もっとも脆い断層へと刃を滑り込ませただけの、電光石火の解体術。
ズザザザァッ……!
スネアがダインの背後へとすり抜け、低く着地した瞬間。
迫り来ていたシャドウオルカの巨躯が、
まるで縦に筋を入れられた果実のように、
ダインの鼻先数センチのところで真っ二つに両断された。
ドサッ、ドサササァンッ!!
鮮血と内臓の奔流を撒き散らしながら、左右に泣き別れとなった二つの巨大な肉塊は、
ダインの脇を勢いよくすり抜け、背後の石壁へと激突して完全に沈黙した。
「…………っ」
ダインは、言葉を失って息を呑んだ。
その横で、立ち上がったエレノアが泥まみれの眼鏡を取り落としそうになりながら、戦慄の声を漏らす。
「スネアさん……あなた、一体どんな技術を身につけてきたの……?」
「へへっ、驚かせちまいやしたかい? スラムの育ちは包丁を握るのが早くてね。
魚の小骨と哺乳類の関節の継ぎ目なんざ、あっしにとっちゃ似たようなもんでさぁ」
「……マグロの解体ショーでも、あんな風に両断はしないわよ」
「そいつはどうも。今度魚屋の面接でも受けてみるでやんすかね」
スネアが肩をすくめたその時、背後で力ない水音がした。
「ダイン……様……」
「リノッ!?」
糸の切れた操り人形のように倒れ込んできたリノの身体を、ダインは慌てて長い腕で抱き止めた。
腕の中に収まった少女は、氷のように冷たく、小刻みに震えている。
濡れそぼった狐耳が力なく垂れ下がり、自慢の尻尾は泥水を吸って哀れなほど細く湿っていた。
リノは、氷のように冷たい額をダインの濡れた胸板に預け、消え入りそうな声で呟いた。
「……命に代えても、なんて……言いません……っ。死んだら、ダイン様のお側を……他の女に譲ることになっちゃいますから……。でも……もう限界です……あっためて、ください……」
「あ、あぁ……よしよし、もう大丈夫だ」
殺気と独占欲は健在なのに、体温とメンタルが完全に限界を迎えている。
ダイン(山田)は呆れと保護欲の狭間で、震えるリノの背中をぎこちなくポンポンと撫でてやる。
するとリノは、寒さを紛らわせるように
「えへへ……♡」と蕩けた笑みを浮かべ、
ダインの首筋に冷たい顔をぎゅっと埋めて離れなくなった。
「…………」
「…………」
凄惨な死闘の直後、唐突に始まった異様な甘々空間を前に、エレノアはペストマスクの下で引きつった顔をし、スネアは深いため息をついた。
「……あのー、ダインの旦那? リノの姉ちゃん? 二人の世界に入るのは大いに結構でやんすがね……」
スネアが呆れ声を上げ、そしてふと、
水が完全に引いた石舞台の周囲を見渡して、その表情をサッと強張らせた。
「そんな事より……アル様が居ないでやんすよッ!!」
「……え?」
ダインはリノを抱えたまま、弾かれたように周囲を見回した。
水は完全に排水孔へと吸い込まれ、広大なドームの全容が露わになっている。
だが——どこにも、あの大剣を背負った男の姿がない。
転がっているのは、ダインたちが叩き伏せた数匹のマーマンと、
両断されたオルカの死骸だけだ。
(待て……おかしいぞ)
ダインの背筋に、冷たいものが走った。
水中で【水流感知】を働かせていた時、確かにこの広間には十数匹のマーマンの気配があったはずだ。
だが、いま転がっている死骸はせいぜい四、五匹。
残りのマーマンたちはどこへ消えた?
そして、オルカに噛みつかれて水底へ引きずり込まれたはずのアルは——?
「アルさん……! アルさぁぁんッ!!」
エレノアが水路へ向けて悲痛な叫びを上げるが、返ってくるのは反響する水滴の音だけだった。
「……おい、スネア。あれを見ろ」
ダインが低い声で指差したのは、ドームの最奥——水が引いたことで露わになった、一段低い巨大な排水横穴だった。
そこには、濡れた石畳を何かが擦ったような、生々しい跡が残されていた。
点々と続く青白い粘液。
そして、引きずられた革鎧の擦れ跡と、拭い去りきれなかった赤い血の筋。
「連れ去られたんだ……。あのオルカとマーマンども、アルを食い殺すためじゃなく……『生きたまま別の部屋へ運ぶため』に水中に引きずり込んだんだ」
ダインの言葉に、スネアが息を呑んだ。
「別の部屋……まさか、カインやミラが閉じ込められているっていう、あの『実験場』でやんすか……!?」
「おそらくはな。素材として回収されたか、あるいは……」
生贄ショーの観客たちに見せつけるための、さらなる悪夢の舞台へ送られたか。
「あのバカ……! 人の心配ばっかりさせやがって……!」
スネアがギリッと奥歯を鳴らし、拳を握りしめた。
だが、その瞳に絶望の色はない。
誰よりも長くあの男の背中を見てきた相棒だからこそ、確信しているのだ。
「……アル様が、あの程度のナマクラ魚に丸呑みされてくたばるタマじゃないでやんす。絶対に生きてるでやんすよ!」
「ああ。あいつはしぶとい」
ダインは腕の中のリノをそっと立たせると、鉄仮面の奥の瞳を鋭く細めた。
水は引いた。
残された粘液と血の跡を辿れば、迷うことなくその先へ行ける。
「追うぞ。……アルを引っ張り出して、ヴォルペの豚どもにツケを払わせる」
「ええ……! 絶対に助け出しましょう!」
エレノアが強く頷き、リノもまたダインの隣で、濡れた瞳に静かな殺意を取り戻してボウガンを構え直した。
仲間の生存の希望を胸に、4人は暗黒の横穴の奥
——さらなる深淵へと足を踏み出していった。




