第40話:惨劇の証言と雪原の天使
# 第40話:惨劇の証言と雪原の天使
###
◇
モーレッツ商会執事、セバスチャンの手記より
――モーレッツ商会に仕えて三十年。執事セバスチャンは、震えの止まらない老躯を抱えるようにして、酒杯のフチを硬直した指先で擦っていた。目の前に置かれた琥珀色の洋酒は、氷がすっかり溶け切ってもなお、一度も喉を通っていない。
「……ええ。お恥ずかしい話ですが、私はいまだに、あの部屋の扉を開けるのが恐ろしいのです。目を閉じれば、あの匂いが……鼻腔にこびりついた、アンモニアと冷や汗の混ざり合った異臭が、今も蘇ってくるもので」
老執事は掠れた声で呟き、深く刻まれた目尻の皺を寄せる。その瞳には、今なお生々しい恐怖の色彩が張り付いていた。
「我が主人、モーレッツ様は、ただの商人ではありませんでした。この悪徳の街メルカティにおいて、血で血を洗うような裏社会の力学を泳ぎ切ってきた歴戦の男です。
スキル『話術士』『交渉術』『鑑定眼』――それらを巧みに張り巡らせ、
どんな凶悪な無法者であっても、
言葉の罠に嵌めて喉元を掴み、最後には握手を交わして笑いながら見送る。それが、私の知るモーレッツ様でした」
セバスチャンは一度言葉を切り、重苦しい沈黙を置いた。喉仏が不自然に大きく上下する。
「ですが……あの方々が去った後の応接室に残されていたのは、
もはや『人間』の体を成していない何かでした。
モーレッツ様は、立て膝の姿勢のまま後ろへ卒倒しておられました。
仕立ての良い上着は自ら漏らした失禁の液体で泥のように汚れ、
黒々としていた髪は一夜にして雪のように真っ白に変色している。
見開かれた目球は焦点を失い、
空洞のような瞳で天井の一点を見つめたまま、ガタガタと歯の根を鳴らしておられました……」
老執事は怯えるように両手で顔を覆った。
「なにより……恐ろしかったのは、お体に一切の傷が無かったことです。
刃物で刻まれた痕も、毒を盛られた皮膚の変色も、打撲の痕跡すらもない。何十時間もの凄惨な拷問を受けたかのような廃人でありながら、
身体は完璧に無傷だったのです。
あのお方は、暴力で屈服させられたのではない。
……あの男の放つ山のような圧迫感と、
傍らの少女が纏う絶対零度の暗黒――人の心を内側から打ち砕く
『底なしの地獄』を直接叩き込まれたのだと、
私は直感いたしました……」
---
◇
###絶えぬ吹雪と、白銀の追憶
視界のすべてが、狂気的な白に塗りつぶされていた。
ゴーゴーと吹き荒れていた猛吹雪が、不意に潮が引くように収まっていく。森の奥深くに広がるのは、静寂に支配された果てのない白銀の雪原だった。
(……鬱陶しいな、くそが)
凍りついた金髪の前髪が、額から目元へかけてカチカチに張り付いている。皮膚を刺す針のような冷気が、わずかな感覚すらも奪い去ろうとしていた。 だが、その前髪への苛立ちと、
腹の底から湧き上がるイラつきだけが
男の途切れかける意識を辛うじて繋ぎ止める楔となっていた。
北の亜人の国との境界領域。 軍事衝突の予兆を察知した軍司令部が、
地形探索と敵情視察のために派遣した五名の斥候小隊。
しかし、極北の気候は甘くなかった。
突如として発生した暴風雪に呑み込まれ、隊員たちは一人、また一人と白い闇の中へ消えていった。
(こんなところで……俺の命が潰えるのか……)
腰に吊るした軍用剣の柄を握りしめる指先はとうに感覚を失っている。
皮の手袋ごと手に貼り付き、まるで冷たい木片を握っているかのようだった。
膝が、ガクガクと震えて折れる。 金髪の青年は、抗う術もなく雪原の上へ突伏した。
軍に入り、泥を啜りながら叩き上げの剣士として手柄を立てる。
そして、没落した己の家門を再興し、かつての栄光を取り戻す――。
胸の奥で燃え盛っていたはずの青々とした野心も、
身体の芯まで侵食する絶対零度の冷たさの前にはあまりにも空しく、
小さく思えた。
顔半分が冷たい雪に埋もれ、耳の奥で自分の途切れ途切れな心拍音だけが響く。
――その時だった。
しん……と静まり返った銀世界に、そぐわない音が混じり込んだ。
鈴の鳴るような、澄み切った子供たちの高い笑い声。
(……幻聴か。死に際に見る、出来の悪い灯火か何かか……)
青年はわずかに頭を動かし、雪に濡れたまぶたを数ミリだけ持ち上げた。
逆光の眩い白光の中、二つの小さな影が雪を蹴散らして戯れている。
天使のような、輝く銀髪と金髪。 人間よりも少し長く、
尖った耳を可愛らしく揺らしながら、
無邪気な笑顔で雪を掛け合うスノーエルフの幼子たちだ。
(そうか……。天国ってのは……案外、冷たくないんだな……)
あたたかな光に包まれるような深い錯覚を抱きながら、青年の意識は静かに、暗黒の底へと沈んでいった。




