第38話:密室の符合と、蠢く影
### 第38話:密室の符合と、蠢く影
「エレノア先生、おはようございます。あの、うちのおばあちゃんが……」
「大丈夫よ、このお薬を白湯に溶かして飲ませてあげてね。午後にまた様子を見に行くわ」
「先生! これ、昨日裏の畑で拾った根菜だ! 泥を落として食ってくれよな!」
「まあ……ありがとう、大切に煮込んでいただくわね」
スラム街のバラック小屋が立ち並ぶ細い路地。
先ほどチンピラを一蹴した興奮も冷めやらぬまま、女医師エレノアに率いられて歩くダインたちの周囲には、次々とスラムの住人たちが集まってきていた。
悪臭と泥に塗れたスラムにおいて、彼女の白衣だけが異質に輝いている。身寄りのない孤児から足腰の立たない病人まで、
誰もが親しげに、
そしてすがるような深い敬意を込めて声をかけていく。エレノアもまた、
一人ひとりの顔と病状を正確に記憶しており、知的な丸眼鏡の奥の瞳を和らげ、心温まる微笑みを返していた。
「……へへっ、見てみろよダイン。顔よし、スタイルよし、おまけに心まで女神様みたいに綺麗なお人好しだ。このドブ底みてぇなスラムに咲いた、最高の大輪の花だな」
背中に大剣を担いだアルが、ダインの腕を肘で小突いて鼻の下を伸ばす。
「ふん、単に己の領分を弁えずに善意を振り撒いているだけでやんすよ。……まあ、この胸糞悪い港町において、あの女が数少ない『本物の聖人』なのは認めやすがね」
アルの肩の上で、ハーフリングのスネアが八重歯を覗かせながら、気だるげに吐き捨てた。
やがて辿り着いたのは、古びた木造バラックの補強を重ねて建てられた小さな診療所だった。
乾いた薬草の甘苦い香りと、化学薬品の刺激的な匂いが混ざり合う室内に足を踏み入れると、エレノアは丸眼鏡の枠を指先で押し上げ、長く安堵の息を吐き出した。
「皆さん、改めまして……助けていただき本当にありがとうございました。アルさんたちも、二人の捜索の途中で駆けつけてくださったのですね」
「気にすんなって! 朝の運動代わりにドブネズミを掃除しただけだ。それよりエレノア、無事で何よりだぜ」
アルが豪快に胸を叩くと、エレノアは困ったように小さく笑い、手際よく煎じたハーブティーを全員に差し出した。
「それで……アルさん、スネアさん。あの子たちの足取りについて、何か分かったことはありましたか?」
そう尋ねながら、エレノアはふと一瞬、アルたちの背後に佇む見慣れない
巨漢の男——ダインと、その傍らで油断なく
警戒を怠らない少女——リノへと視線を向けた。
スラムにはそぐわない圧倒的な存在感を放つ二人の姿に、ほんの少しの疑問と警戒が覗く。
アルはその視線に気づくと、豪快に頭を掻きながら笑った。
「あぁ、この二人は俺の連れみたいなもんだ。訳ありだが信用できる奴らだから気にしないでくれ! ……そういや、ダインたちにはまだこの状況を話して無かったな」
アルはダインに向き直り、ことの経緯を説明し始めた。
「昨日、お前らと別れた後さ。俺とスネアは冒険者ギルドへ向かったんだよ。道中で倒した野盗の懸賞金の受け取りと、
あのザンギエットさんの荷馬車護衛を最後までやり遂げた報告をしに整頓しに行ったんだ」
「そうでやんす」とスネアが言葉を継ぐ。
「そしたら、あの時に途中でアル様にケツを掴まれてに依頼を離脱したミラとカインの二人が、あれから一向にギルドへ帰還していないことが判明したでやんす。おまけにちょうどその時、ここ一週間ほど姿を見かけない二人を心配したエレノア先生が、冒険者ギルドへ二人の捜索依頼を出しに偶然やってきたでやんすよ。
「ケツを掴んではねぇだろ……まあ、昔からの馴染みってことで、俺たちがそのまま依頼を引き受けたってわけだ」
じとっとした汚らわしい物を見る様な目でエレノアがアルへ視線を送っていた。
「け、ケツを…??」
「そういうことでやんす!」とスネアが頷き、再びエレノアへ視線を戻した。
「で、本題なんだが……エレノア、あの子たちの足取りを徹底的に洗ってみたら、かなりヤバい状況が見えてきたぜ」
スネアが懐から羊皮紙の小さなメモ帳を取り出し、指先でページを繰りながら淡々と語り出す。
「あの二人の足取りを徹底的に洗ってみたでやんすが……どうやら想像以上に
切羽詰まっていたようでやんすよ。
ここ数か月、ダンジョン攻略のパーティに入っちゃあ連携ミスで失敗続き。
それだけならまだしも……過去に商人の護衛依頼を受けた際、途中で敵前逃亡同然に離脱し、商人から多額の違約金を請求されていたでやんす」
「違約金……?」ダインが低い声で呟く。
「そうでやんす。正規の冒険者ギルドで請け負う下級依頼の報酬じゃあ、
到底返済が間に合わない膨大な利息でやんすね。
当然、闇の金融屋にも手を出していた形跡があったでやんす。
……昨日、ザンギエットさんの馬車護衛を途中で勝手に離脱したのも、ギルドにまっすぐ帰らなかったのも理由が見えたでやんすよ」
アルが重々しく腕を組み、いつもの軽薄さを消して引き継ぐ。
「ま、大方、あそこで俺の女に手を出しやがって!!っと騒いでから俺様から金でもふんだくろうとしたんだろうよ。
俺が気にも留めねぇもんだから諦めたのか、引っ込みがつかなくなっちまったんじゃねぇかな。」
「街に帰ってからギルドを通さねぇ『裏の闇依頼』に飛びついたんだろ。金融屋か裏のツテから『今すぐまとまった金になる地下水道の怪しい仕事』を聞きつけて、一発逆転を狙って向かっちまった……ってのが、俺たちの見立てだ」
「そんな……カインもミラも、ただ借金を返すために必死だったなんて……っ」
エレノアが胸元を強く握りしめ、言葉を詰まらせた。
ここで、それまで沈黙を守っていたダインが一歩前に進み出た。
「……エレノア女医。実は俺たちも、ついさっきまでその地下水道にいた」
ダインは、暗殺者ギルド『黒の回廊』の筆頭であるジゼルから紹介状を受け取り、その地下施設を経由して地下水道の怪物退治を命じられた一連の経緯を、噛み砕いて説明した。
「なるほど……ダインの旦那たちも、暗殺者ギルドという裏のルート経由で地下水道へと導かれていたでやんすか」
スネアが顎に手を当て、思考を巡らせる。
ダインは少しの間思案したのち、上着の首元を緩めながらエレノアに向き直った。
「医師であり、科学者でもあるお前に……ひとつ見てもらいたいものがある」
ダインが背を向けて服を肌脱ぐと、そこにいた全員が息をのんだ。
広大な肉体の背骨に沿って、皮膚の下から黒く禍々しく脈打つ『龍毒』の異形な鱗紋様が広がっていたからだ。
「これは……!?」
エレノアの丸眼鏡の奥の瞳が一瞬で鋭くなり、科学者としての濃密な知的好奇心がその表情を支配した。
恐れる素振りすら見せず、吸い寄せられるようにダインの背中へ肉薄すると、白衣のポケットからルーペを取り出して凝視する。
「信じられない……強力な呪素と、龍種特有の変異魔素が細胞レベルで融合し、宿主の遺伝子構造そのものを書き換えようとしているわ。それなのに生体組織として完全に調和を保っているなんて……! ねぇダインさん、お願い。サンプルを採らせて頂戴! 組織液かほんの少しの皮膚片だけでいいの……!」
身を乗り出してきたエレノアの眼光に圧され、ダインが思わず後ずさろうとしたその瞬間——。
「だーめ、でございます♡」
絶対零度の笑みを浮かべたリノが、隙のない足さばきでダインとエレノアの間に割り込んだ。両手を広げ、ダインの背中を完全に遮蔽する。
「ダイン様の尊いお身体に無闇に針を刺すなど、専属従者である私が許しませんわ。……それに、エレノア先生? 患者様に配るお薬の調合でお忙しいのではありませんこと?」
「ひっ……! 殺気……!?」
エレノアが引きつった声をあげて後退する。リノの耳と尻尾は可愛らしく揺れていたが、その瞳には一切の光が宿っていなかった。
「ま、待てリノ、俺は検体になるくらいなら別に……」
「ダメなものはダメでございますダイン様! 龍毒のケアはわたくしの……専属従者としての絶対領域でございますから!」
たじろぐダインと、恐ろしいほどの独占欲を隠そうともしないリノ。
そのやり取りを呆れ顔で見つめていたアルが、ふと顎に手を当てて思考を切り替えた。
「……なあダイン。毒といえばさ、地下水道にいたっていう『ヒュドラ』の毒は大丈夫だったのか?」
「ん? ああ、酸の吐息は苛烈だったが、リノのサポートもあって何とか討伐できたぞ。
ちょっとだけ喰ってみようか考えたんだが、細胞を取り込んで蛇男になってしまっては生活に困るかと思ってやめておいたよ。」
「……いや、喰うって、おまえ、流石にドン引きだぜ…ん?てかよ?おかしくねぇか?」
アルの眉間に、深い皺が刻まれる。
「ヒュドラってのは、血液が猛毒の酸なのは当然として……何より
『受けた物理攻撃の威力をそのまま肉体表面で反転・無効化する(物理反射)』っていう、
悪夢のような固有特性を持ってるはずだろ。昔、冒険者協会の討伐記録で読んだことがある。お前ら、よく武器も腕も砕かれずに倒せたな」
ダインは目を瞬かせた。
「……物理反射? いや、そんなものは一切使ってこなかったぞ。異様な再生能力と酸の吐息は厄介だったが、俺の物理打撃は明確に奴の肉体を損壊させていた」
「……ますます妙でやんすねぇ」
スネアが小さく指を鳴らし、暗い瞳で部屋の天井を見上げた。
「そもそも地下水道の定期清掃や保安管理は、メルカティの『表の権力』である治安維持部隊の管轄のはずでやんす。
そんな特級クラスの化け物が居座っているなら、
冒険者ギルドや傭兵ギルドに懸賞金をかけて
大々的に討伐隊を募るのが筋でやんすよ。……なんでわざわざ、
暗殺者ギルド『黒の回廊』なんて日陰者に始末をつけさせようとしたでやんすか?」
重苦しい静寂が、診療所の薄暗い空気を支配した。
カインとミラが飛びついた「闇の金融屋からの高額な裏依頼」。
本来持っているはずの物理反射特性を欠いた「不完全なヒュドラ」。
表の治安維持部隊ではなく「暗殺者ギルド」へ極秘裏に持ち込まれた処分依頼。
そして、ダインたちが追う「ヴォルペファミリー傘下の密輸商会」。
一見バラバラに見えた点と点が、目に見えない巨大な糸によって手繰り寄せられ、ひとつの形を成していく。
「……誰かが、あの地下水道を『違法な実験場』として利用しているとしたらどうだ?」
ダインの低く重い声が、静寂を切り裂いた。
「表沙汰にできない実験の失敗作——あの人工ヒュドラを処理するために
暗殺者ギルドを利用した。そして、その実験の『生体サンプル』
あるいは『雑用係』として……借金で首の回らなくなったカインやミラのような追い詰められた人間が、裏の金融屋を通じて誘い出されたのだとしたら……」
「そんな……! じゃあ、あの子たちは今……!」
エレノアの顔から血の気が失せ、丸眼鏡を握る手が小刻みに震えだす。
「……フン、行き先は決まったようだな」
アルが大剣の柄に手をかけ、凶悪な笑みを唇に浮かべた。
「その哀れな冒険者二人を利用した金融屋と、裏で糸を引いてるヴォルペ傘下の商会……直接乗り込んで、胃袋の中身まで残さず吐き出させてやろうじゃねぇか」




