第37話:束の間の静寂と、深まる執着
---
### 第37話:束の間の静寂と、深まる執着
「ふう……やっと一息つけそうだな」
ジゼルから渡された紹介状を懐に収め、ダインたちは暗殺者ギルド『黒の回廊』の地下施設を後にした。
案内されたのは、娼館『黒猫の囁き』の目と鼻の先にある、重厚な石造りの高級宿屋だった。裏社会の権力者や訳ありの富豪が利用する場所らしく、防音とプライバシーの保護は徹底されており、スラム特有の喧騒や湿った臭気とは完全に途絶されている。
通された部屋は、フカフカの絨毯が敷き詰められた広々とした空間だった。中央には、大人の男性が二人横になってもまだ余りあるほど大きなダブルベッドが鎮座している。
「ダイン様、お疲れ様でございました。まずは……お召し物を脱いでくださいませ」
部屋の鍵をかけるやいなや、リノが甲斐甲斐しくダインの前に回り込んできた。
「ああ、助かる。地下水道の臭いとヒュドラの返り血が染み付いて、どうにも落ち着かん」
ダインが上着を脱ぎ捨てると、リノは手慣れた手つきでそれを預かり、壁のハンガーへと掛けた。
そして、そのまま自然な動作でダインの太い腕に「すりっ」と自身の身体を寄せてくる。
「……リノ?」
「はい、ダイン様♡」
抱きついてきたリノの耳と尻尾が、嬉しそうにパタパタと揺れている。
先ほどジゼルの前で見せていた、あの氷点下100度の「絶対零度の殺気」は跡形もなく消え去り、そこにはダインだけに向けられる甘く重い愛を湛えた少女の顔があった。
「お風呂の前に……少しだけ、こうさせてください。あの女の……サキュバスの甘ったるい匂いが、ダイン様に残っていて嫌なのです」
「匂い……? いや、俺はそんな匂いは感じんが……」
「コボルトの鼻を舐めないでくださいませ。……んっ、ダイン様。もっと近くに……」
リノはダインの胸板に顔を埋め、まるで自分の匂いを上書きするかのようにすりすりと頬を擦りつけてくる。
ダイン(山田)は、その小さく温かい体温を感じながら、苦笑いを浮かべて頭を撫でてやった。
(まあ、サキュバスの魅惑に当てられかけたのは事実だしな……。リノが怒るのも無理はないか)
「よしよし。悪かったよ、リノ。俺にはお前という最高の従者がいるんだ。あの手の誘惑に乗るつもりはない」
「ふふっ……本当でございますか? 『極上の夜』に、少しだけ目が釘付けになっておられませんでしたか?」
リノが上目遣いで、少しだけ意悪く微笑む。
「ぐっ……そ、それは……男としての生理現象というか、だな……」
「冗談でございます♡ ダイン様が私を一番に思ってくださっていることは、ちゃんと分かっておりますから」
リノは満足そうに目を細めると、ダインの腕をギュッと抱きしめ直した。
「ま、待て、リノ、龍毒は触れただけで感染するとか言ってなかったか!?」
ダインは慌ててリノを引き剝がそうとたじろぐ。
「わたくしはもはやある程度の耐性がございますので平気なのです!」
——リノは嘘を吐いていた。
先刻、ザンギエットへ言っていた「触れ合うと身体の神経が焼き切れる恐ろしい呪い」という話が、自分だけがダインに触れられるように。
龍毒によるデバフは確かにある。だが、こうして触れ合っていてもリノの身体に異常は起きていない。
ダインはどこまでも不器用で優しい。だからこそ、リノはその「優しい嘘」を言及することも暴くつもりもなかった。
このまま一生正々堂々、騙しぬく。
(ダイン様が『触れ合ってはいけない』と思い込んでくださっているおかげで……私はこうして、ダイン様を独占して甘えることができるのですから……♡)
暗い情念を含んだ喜びを胸の奥に秘めながら、リノはダインの胸元にそっと唇を寄せた。
「ダイン様。お風呂の準備をしてまいりますね。……一緒にお背中をお流しいたします」
「いや、それは自分で……」
「だーめ、でございます。龍毒の侵蝕痕のケアは、専属従者である私の仕事ですから」
かいがいしく浴室へと走っていくリノの小さな後ろ姿を見送りながら、ダインは大きく息を吐き出し、ベッドの端に腰を下ろした。
(【オーバードライブ/インパクト】か……。受けた衝撃を反転して解放する。あのスキルがなければ、ヒュドラの再生能力を突破することはできなかった)
ダインは自身の右腕を見つめた。
皮下に刻まれた黒い龍鱗の紋様。ヒュドラの全衝撃を蓄積した際、黄金色に輝いたあの感触が手拳に残っている。
「霊峰ヴァルザード……そして、自由都市メルカティの『裏の支配者』……」
背中の呪いを解き、この異形化を制御するための道筋は見えた。
だが、ジゼルが言っていた通り、メルカティの街には一筋縄ではいかない暗雲が立ち込めている。
「……面倒事には巻き込まれたくないんだがな」
ダインの呟きは、浴室から聞こえてくるパシャパシャという温かい水の音にかき消されていった。
◇
翌朝。
十分な休息と、宿屋の豪勢な食事によって体力を回復させたダインとリノは、ジゼルから提示された「ヴォルペファミリー傘下の商会」の手がかりを求め、メルカティの東区スラム街へと足を踏み入れていた。
「うげっ……地下水道ほどじゃないが、酷い臭いだな」
「ええ。メルカティの輝かしい貿易都市としての光の裏側……文字通りの『ゴミ捨て場』でございますね」
立ち並ぶのは、今にも崩れそうな木造のバラック小屋。
路地裏には身寄りのない孤児や、酒に溺れた落ちぶれ者が力なく座り込んでおり、治安の悪さはこれまでの街の比ではない。
ダインたちが周囲を警戒しながら歩を進めていた、その時——。
「やめて……! 放してくださいっ!」
「へへっ、いいじゃねぇかよお姉ちゃん! ちょっとツラ貸しな! 俺たちの傷の手当をしてくれるだけでいいんだよぐへへ!見ろよ、こんなにアソコが腫れちまってんだ!!」
細い路地の奥から、若い女性の悲鳴と、ガラ悪く下品な男たちの笑い声が聞こえてきた。
「……チッ、チンピラか」
ダインが足を進め、助けに入ろうと肩を揺らした——その瞬間。
「おいおい、朝っぱらから寄ってたかって女一人に惨めな真似してんじゃねぇよ、ゲス共が!このハゲッ!!」
「……アルのアニキ、あの人たちはハゲてないでやんす。ただの下品なチンピラでやんすよ」
聞き覚えのある豪快な男の声と、少し尖った耳と金髪を揺らした小柄な少女の、生意気そうで愛らしい声が路地裏に響き渡った。
「なんだコラッ!!ガキども!!」
ドガッ!! バキッ!!
「ぐあぁっ!?」
「へぶっ!?」
次の瞬間、襲いかかっていたチンピラたちが、まるでゴミ袋のように路地裏から吹き飛ばされて石畳の上を転がった。
煙が晴れた奥から姿を現したのは——背中に丈ほどもある巨大な大剣を背負った金髪髪の男と、その肩の上にちょこんと乗り、鋭い琥珀色の瞳と小さな八重歯を覗かせたハーフリングの少女だった。
「アル……!? それに、スネア!?」
ダインが驚きに目を見開くと、大剣を肩に担ぎ直した男——アルがニッと八重歯を見せて振り向いた。
「お……? その無駄にデカい体躯と不気味な気配……ダインじゃねぇか! 奇遇だな、こんな泥臭いスラム街で会うとはよ!」
「へっへっへ、奇遇でやんすねぇ! ダインの旦那にリノの姉ちゃん!」
アルの肩からひらりと跳び下りたスネアは、金髪のハーフアップを揺らし、そばかすの残る可愛らしい顔に八重歯を覗かせてニヒッと笑ってみせた。
「アル! スネアさん!」
リノも驚きつつ、嬉しそうに耳をピクピクと揺らす。
「相変わらず無駄にバカデカい旦那でやんすなぁ……無事で何よりでやんす。うちのアル様が相変わらず騒々しくてすまないでやんすね」
スネアは手に持った小さな毒針や暗器を素早く懐へ収めると、やれやれと肩をすくめた。
二人は武器すら抜かず、アルの豪腕とスネアの目にも止まらぬ素早い牽制だけで、一瞬にしてチンピラ数名を叩きのめしていたのだ。
「あ……ありがとう、ございます……っ」
チンピラに襲われていた若い女性が、胸元を押さえながら安堵の息を漏らした。
白衣のような羽織を身に纏い、丸眼鏡の奥から知的な瞳を覗かせている、美しい黒髪の女性——スラム街で小さな診療所を営む女医師(兼 科学者)だった。
「礼ならこの大剣バカに言ってくれでやんす。……それで、ダインの旦那。こんなスラム街に何をしに来たでやんすか?」
アルが腕を組み、ニヤリと笑いながらダインを見上げ、スネアも興味津々に首を傾げる。
思わぬ場所での頼もしい再会。メルカティの暗部に渦巻く陰謀の歯車が、静かに、そして確実に動き始めようとしていた。




