第32話:自由都市の影と黒猫の誘い
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### 第32話:自由都市の影と黒猫の誘い
自由都市メルカティ。
高く聳え立つ石造りの城壁を潜ると、そこは熱気と喧騒に満ちあふれた異国のような空間だった。
街道を埋め尽くす多種多様な種族の旅人、立ち並ぶ露店から漂う香辛料と焼き肉の匂い、威勢のいい商人たちの掛け声。
だが、その活気あふれる表通りから一本路地へ入れば、湿っぽく薄暗い裏通りの影がどこまでも伸びている。
「さて……ダイン様、あーしらとはこの大通りでお別れでやんす!」
馬車を停めた場所で、スネアがひょいと御者台から飛び降りた。
アルも大剣の柄に手を置いたまま、不器用そうに頭を掻く。
「俺とスネアはこれから冒険者ギルドの登録更新と、今回の護衛報酬の受け取りがあるんでな。……ま、いろいろあったが、お前さんが無事に毒の治療法を見つけられることを祈っとくぜ」
「ああ、助かったよ。アル、スネア。あんたたちのおかげで無事にここまで来られた」
ダインが深く頭を下げると、アルは「へっ、よせやい」と照れくさそうに顔を背けた。
「じゃあな! もし冒険者ギルドで困ったことがあったら、この『元・精鋭傭兵天下無双の剛剣アルデバラン様』の名を出しな! ……まあ、門前払いされるかもしれねぇけどな!」
「余計なオチをつけないでくださいアル様! ほら、行きますよ!」
スネアに首根っこを引っ張られるようにして、アルは雑踏の中へと消えていった。
なんだかんだと悪態をつきながらも息の合った二人を見送り、ダインとリノ、そしてトマス商会のザンギエットが残される。
「さて、ダイン様。わたくしも商会の本店へ顔を出さねばなりません。……道案内はここまでとなりますが、娼館『黒猫の囁き』のあるスラム街はお分かりになりますか?」
「いや、初めての街だ。リノ、分かるか?」
「はい。メルカティの裏路地の構造は、ザンギエットさんから頂いた地理書で把握しております。ダイン様をお導きするのに支障はありません」
リノが胸を張り、ぴんと耳を立てて頼もしく頷く。
「結構。ではダイン様、くれぐれもお気をつけを。スラムの住人は目が肥えています……フードの奥の『真実』に気づく者もいれば、一見して只者ではない貴方様の雰囲気に命知らずが群がってくるやもしれません」
ザンギエットは揉み手をしながら、最後に一瞬だけ元暗殺者らしい冷徹な眼光をダインに向けた。
「あの銀のコイン……『黒猫の囁き』の店主に見せれば、道は開けます。健闘をお祈りしておりますよ」
「感謝する、ザンギエット殿」
言葉を交わし、ザンギエットの馬車も見送ったダインとリノは、表通りの喧騒を後にし、怪しげな熱気が漂うスラム街の路地裏へと足を踏み入れた。
◇
通りを進むにつれ、周囲の視線が露骨に痛くなってきた。
ガリガリの2.5メートルという巨躯に深いローブ。どこからどう見ても怪しいダインの姿に、路地の影から泥棒やならず者たちが舌なめずりをしながら様子を窺っている。
だが、ダインの隣を歩くリノが時折見せる「冷ややかな殺意」と、ダイン自身の圧倒的な体格差に気圧され、誰一人として襲いかかってくる者は(今のところは)いなかった。
(……やれやれ、視線だけで胃が痛くなりそうだ)
ダインは心の中で苦笑した。
ふと横を見ると、リノが自分の裾をぎゅっと強めに引っ張っている。
「どうした、リノ? 怖いか?」
「いいえ……怖くなどありません。ただ……」
リノは上目遣いでダインを見つめ、少し頬を赤らめながら呟いた。
「どうした、リノ? 怖いか?」
「いいえ……怖くなどありません。ただ……ダイン様のお側を離れたくないだけでございます」
リノは上目遣いでダインを見つめ、どこか愛おしそうに頬を緩めた。
「ふふ、大丈夫だ。俺から離れるなよ」
「はいっ、ダイン様!」
ダインが優しく頭を撫でると、リノは嬉しそうに耳をぴくぴくと揺らした。
「……本当は、それだけではございませんけれど……」
「ん? 何か言ったか、リノ?」
「いいえ! なんでもございませんっ!」
リノはパッと顔を赤らめ、誤魔化すようにフイッと顔を背けた。
ダインが首をかしげ
「…だったのもございます……」
ボソッと小さく呟かれた言葉に、ダインが聞き返そうとした瞬間——
「……着きましたよ、ダイン様。ここです」
リノが足を止め、指をさした。
路地の行き止まり。
壊れかけた木造建築の頭上に、片目を擦り寄せた黒猫の絵が描かれた錆びた看板が揺れている。
看板の文字は枯れ果て、一見するとただのうらぶれた酒場か、寂れた娼館にしか見えない。
——娼館『黒猫の囁き』。
「……よし、行くぞ」
ダインは息を整え、重い木製扉を押し開けた。
ギィィ……と嫌な音が響き、店内へ入る。
薄暗い店内には、安っぽい酒と紫煙の匂いが立ち込め、数人の客と露出度の高い衣装を着た女性たちが怠惰に過ごしていた。
ダインが踏み込んだ瞬間、巨体によって入り口の光が遮られ、店内の視線が一斉に注がれる。
「……おいおい、でかい客が来たもんだねぇ」
カウンターの奥から、煙管をくゆらせた熟年の女性——この店の店主らしき人物が、紫煙の向こうからダインを睨みつけた。
「うちの店は図体のデカさで料金を変えたりはしないよ。何の用だい、デクの坊?」
ダインは無言のままカウンターへ近づき、ポケットからザンギエットから渡された**純銀のコイン**を取り出すと、カチャンと木製のカウンターへ滑らせた。
コインを見た瞬間——
女性の煙管を吹く手が止まり、店内に流れていた怠惰な空気が、一瞬で氷のように張り詰めた。




