第23話:地獄の輪舞、絶望の果てに
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### 第23話:地獄の輪舞、絶望の果てに
迷いの谷を泥のように覆い尽くしていた濃密な夜霧。それが、まるで巨大な見えない手によって押し開かれるように、波が引く一瞬で引き散らされていく。
ヴァルゼリオが、手にした長槍の柄を無造作にトン、と地面へ突き立てた――ただそれだけの動作だったというのに。
「周囲一キロメートルの濃霧を晴らした。なに、地脈をほんの少し調整しただけだよ」
朗々と響く声で、ヴァルゼリオはごく当然のように宣わった。
――ちなみにこの後、数百年間にわたり、迷いの谷にはぽっかりと円形に一キロメートルだけ晴れ渡る奇妙な空間が遺されることになるのだが……当然、いまの山田たちにそんな未来の歴史を知る由もない。
全裸に単眼ゴーグルという奇妙極まりない姿。しかし、彼が背負う圧力は常軌を逸していた。ただそこに立っているだけで周囲の空間そのものが歪み、空気が重く押し潰されるような錯覚を覚える。
山田は背筋を氷でなぞられたような激しい悪寒を感じながら、冷や汗を流して必死に思考を巡らせていた。
(……勝ち目があるのか? いや、正面から戦って勝てる相手じゃない。だが、逃げられるか……? この圧力を前に背中を見せた瞬間、間違いなく首が飛ぶ……!)
「……少しだけ、猶予をくれないか?」
山田が喉を震わせ、しわがれた声で絞り出すように問う。
ヴァルゼリオは一瞬だけ驚いたように眉を上げたが、すぐに愉悦に満ちた笑みを口元に浮かべた。
「3分間だけ待ってやる」
ヴァルゼリオは美しい長槍を傍らの岩盤へ無造作に突き立てると、鷹揚に腕を組み、愉悦の眼差しを向けたままその場に佇んだ。猶予を与えることに一切の不都合を感じていない――圧倒的強者ゆえの余裕と傲慢。
山田はすぐさまルシェラへ向き直し、周囲に聞こえないほどの低い声で囁いた。
「ルシェラ、瞬間的に考えた作戦がある。上手く行く保証はない……だが、恐らく他に道はない」
「私を置いて行きなさい」
ルシェラは唇を噛み締め、震える声で即答した。
「私なら、最悪でも影に潜んでどうにか時間を稼げるわ。貴方はその隙に――」
「いや、どうやら俺も逃がすつもりはなさそうだ。どちらかと言えばあのホモは俺にご執心のようだしな」
山田は短く吐き捨てると、ルシェラの耳元で作戦の全貌を伝えた。
…
――正気の沙汰とは思えない、死地の中の死地を突く死闘の絵図。
聞き終えたルシェラの顔から一瞬で血の気が引き、その華奢な肩と手がガタガタと激しく震えだした。
「……絶望的ね……そんなの、成功したとしても無事でいられるわけが……」
「でも、乗ってくれるだろ? ここを突破したらさ……俺、小さな農場を営むんだ。そこで綺麗な嫁さんをもらって、幸せな家族を築くんだ……」
「やめて!! 大きな戦いの前にそういう話をすると死ぬわよ! 冒険者や傭兵じゃ有名な死のジンクス(死亡フラグ)なのよ!」
悲鳴のようなルシェラの凄まじいツッコミに、山田は引きつった苦笑いを浮かべた。命懸けの極限状態の中で交わされる、どこか歪で切実な二人の会話。
「時間だ。さあ、次の幕を上げよう。今度はどんな喜劇で私を愉しませてくれるのかね?」
ヴァルゼリオの朗らかな声が空間を突いた。
山田はゆっくりと深呼吸をし、重い足取りでヴァルゼリオの前へ歩み出ると、巨大な右の硬質化した拳をすっと突き出した。
「俺の故郷の決闘の合図なんだ。付き合ってくれないか?」
「ほう、魔界か異界か、趣のある作法だ。良いだろう。こうかな?」
ヴァルゼリオも素直に応じ、全裸のままゆっくりと自身の拳を突き出してきた。
二人の巨大な拳と細い拳が、ココン、と静かに触れ合う。
そして、山田が一歩下がるのと同時に、ヴァルゼリオもまた寸分違わず一歩下がった。
――その瞬間!!!
「オオオオアアアアアアアッ!!!!」
山田の全身の筋肉と外骨格が爆発的な収縮と膨張を起こした。
四百五十キロの質量からは到底信じられないほどの極限の初速。地面の岩盤が炸裂してクレーターを生み出し、音速の壁を破る踏み込みとともに、途方なさすぎる膂力を乗せた破壊の拳が猛然とヴァルゼリオへ打ち込まれる!
ドカッ! バギッ! ボガァンッ!
空気が爆裂する凄絶な衝撃波が谷間に連裂する。山田の繰り出す拳は、一撃一撃が大型の魔獣すら一瞬で肉塊に変える威力を秘めていた。
しかし――ヴァルゼリオはその怒涛の暴風のような連撃を、悠然と躱し、流れるように捌いていた。
首をわずかに数ミリ傾けて紙一重で回避し、時には手刀の側面で山田の巨拳の側面をかるく叩いて軌道を逸らす。まるで空気を撫でるような無駄のない動き。全裸という無防備極まりない姿でありながら、その皮膚一枚にすら山田の拳は届かない。
そして、山田がすべての膂力を込めて繰り出した渾身の左ストレートを完全に捌き切った刹那――。
ヴァルゼリオは独楽のように身を翻し、完璧な円を描く回し蹴りを山田の胸部へと深く突き立てた!
「グウェッ……!?」
ドガンッ!! と大砲がゼロ距離で炸裂したかのような衝撃波。
鮮血と砕けた外骨格の破片を派手に撒き散らし、山田の巨体は弾丸のようなスピードで谷の壁面へと叩きつけられた。胸部の分厚い外骨格がバキバキと音を立てて蜘蛛の巣状に砕け散り、内臓が押し潰される激痛が走る。
「フフ……まるで災害だな」
散り散りに舞う血煙と岩の破片を浴びながら、ヴァルゼリオは歓喜に溢れた笑みを浮かべた。
相手の絶望的な攻撃の威力を、まるで上質な酒でも味わうかのように楽しんでいる。
だが――山田の目は死んでいなかった。
砕けた胸を押さえ、血を吐きながらも、ギラギラとした野生の欲望を孕んだ眼光でヴァルゼリオを睨みつける。
「『跳躍』!! 『突進力の強化』!!」
衝撃音とともに背後でソニックブームが発生し、鼓膜を破るほどの爆音が谷間に響き渡る。弾丸のごとき勢いで再接近する山田。
スピードと巨体の絶対的な重密度を乗せた渾身のアッパーカットが、凄まじい烈風を巻き起こしながらヴァルゼリオの顎下へと突き上げられる。
だが、またしてもヴァルゼリオはひらりと、まるで羽毛のように身を躱した。
「君がいかに超人的なスピードで仕掛けてきても、その単調な軌道では、私に力は届かない」
回避から滑らかに反転し、追撃の必殺の蹴りを繰り出そうとした――その瞬間だった。
ヴァルゼリオの足元に、決定的な異変が生じる。彼の両足首から下が、いつの間にか地面の岩盤と一体化し、強固に固着していたのだ。山田が最初の連撃の際、密かに地表へ叩き込んでいた魔力と岩の歪み。
「なに……!!!」
「『アースバインド』!!」
岩陰に潜んでいたルシェラの叫びとともに、地脈の拘束魔法が完璧に発動する!
一瞬の途切れ。神速の騎士団長の動きが、確かに「停滞」した。
そのわずかな隙を絶対に逃さず、山田はすでに先ほどとは反対側の死角へと飛翔していた。
「『跳躍』!! 『突進力の強化』!! 『風のブレス』!!」
飛竜を喰らった際に獲得した背面のエアロダイナミクス構造から、高圧の気流ブレスが爆発的に噴射される!
直線的な突撃ではない。途中から渦を描くように旋回し、不規則な竜巻となってヴァルゼリオへと襲いかかる。
そして、山田の右拳――そこには、地を這った際に握り締め、自身の異常な握力によって炭素と無機物を極限まで圧縮し、「ほぼ金剛石」と化させた無数の鋭利な石ころが握り締められていた。
ヴァルゼリオの目と鼻の先で、背面機構から爆発的なブレスを最大噴射! 遠心力を極限まで乗せたアッパーを打つ姿勢!
「――と見せかけて!!! 死ねぇええええええええ!!!」
直前に拳が開かれ、解き放たれた金剛石の礫群!
山田の途方もない腕力と遠心力によって放たれたそれは、超至近距離からの広拡散散弾銃のごとき殺傷兵器となり、瞬間的にヴァルゼリオの全身を呑み込んだ!
「なにィイイイイっ!!!」
しかし、ヴァルゼリオの戦闘直感は人間の領域を遥かに超越していた。
彼は足首を固定された状態のまま、膝から背後へと折れ曲がるように崩れ落ちる極限の体勢をとったのだ。足元を一歩も動かすことなく、まるで世界の時間の流れから一人だけ切り離され加速したかのように、残像を残す神速で無数の金剛石の礫をすべて紙一重で避け切ってみせた。
「無駄無駄無駄無駄‼」
ズババババババンッ!!! と背後の岩盤が蜂の巣になり、舞い上がる砂塵と烈風。
その砂塵を切り裂き、不自然な体勢から急激に跳ね起きるようなヴァルゼリオの右ストレートが、技の後隙で無防備になった山田の胸部に深く突き刺さる!
「無駄ァアアアアアアアアア‼」
ドオォンッ!!!
爆撃のような轟音が谷全体を震わせた。
山田は錐揉み回転しながら凄まじい勢いで地面をバウンドし、谷の岩盤壁面へ激突して深々とクレーターを作り出した。
外骨格は見る影もなく無残に破壊され、左腕に至っては肩から先が丸ごと吹き飛び、肉と骨の断面が無惨に晒されている。
「カハッ……!! ガ、ハッ……!!」
血反吐を吐き出し、全身の裂傷から生々しい濁流となって血が溢れ出る。視界が赤く染まり、意識が途切れかける。
「良い攻撃だっ…… タッ…グッ…!!」
ヴァルゼリオが感嘆の言葉を言い終わるより早く――隠密スキルで完全に気気配を消し、暗闇の中で血を吐きながら長大な詠唱を終えていたルシェラの、最大級の重力魔法が炸裂した!
「『頭を垂れよ、大地を統べる目知らぬ鎖よ。天の重みをもって、等しく万物を平伏せよ――万象潰滅!!』」
ズズズズズンッ……!! と空間そのものが数メートル沈み込むような超重力。
「この雌犬が…‼ この俺を‼ 跪かせる事が、できるのは…‼ 皇帝陛下ただ一人よ!!」
並の騎士であれば内臓も肉も一瞬で潰れて破砕される絶望的な重力場。しかしヴァルゼリオは血を吐き、血管を浮き出させながらも、咆哮とともに両足で大地を踏みしめ、膝をつくことを力ずくで拒絶した。
そこへ――クレーターの岩盤を蹴破る爆音とともに、左腕を失った山田が巨大な肉弾砲弾となって飛来する!
その流星のような軌道のまま巨大な顎を極限まで開放し、ヴァルゼリオの太い首筋へと深く、深く喰らいついた!
「ウヴォアアアアアアアアアアア!!!!(今だーーーーー!!!)」
山田の魂を削る叫びと同時に、黒く淀んだ沼のような魔力が周囲へ広がり、黒い雪のような粒子が舞い散る。
潜んでいたルシェラの蛇腹剣が伸長し、山田の傷だらけの肉体に強く巻き付いた。
「——『魔源掠奪』!!」
その瞬間、周囲に黒と赤の稲妻のような魔力の奔流が爆発的に撒き散らされ、三者はうめき声とも叫びともつかない悲鳴を上げる!
「ウォオオオオオオオオオ!!!」
「この俺から魔力を喰らい尽くす気か!! ハハハハハハ!!! 面白い!!! 実に愉快だ!!!! ならば存分に味わうが良い!!!!」
ヴァルゼリオは逃げるどころか、首筋に喰らいつく山田を、まるで愛しい恋人を強く深く抱きしめるかのように、その太い腕で強く抱いた(いだいた)。
(ここからは!! 根比べだ‼ 喰らい尽くしてやる‼ 倒れろぉおおおおおおおおおおおお!!!!!)
ヴァルゼリオの常軌を逸した締め付けにより、山田の外骨格はさらにバキバキとひび割れ、全身のヒビから勢いよく血が噴き出す。
だが、ルシェラの蛇腹剣を経由して無制限に流れ込んでくるヴァルゼリオの規格外な魔力が山田へ直接注入され、山田の『暴食』スキルが異常活性化。その莫大なエネルギーによって壊された肉体が即座に超回復を始める。
再生し、強烈な筋力で砕かれ、血を吹き出し、また再生する――。
循環し、噛み合う三位相剋の関係。
今ここに、血と再生の不毛な永久機関が誕生した。
……誕生した、ように見えた。
だが、先に決定的な限界を迎えたのは――二人の間を繋ぐ中継役であるルシェラだった。
「がっ……あ……っ!? ぐ……あぁあああっ!!」
両耳から、両目から、鼻から鮮血を吹き出し、ルシェラの全身の皮膚がミシミシと音を立てて裂け、大量の血が噴き出す。
(魔力が……濃すぎる……!!! 処理できる量を……遥かに超えている……!!)
循環するループは回数を重ねるごとに魔力密度を激増させ、ヴァルゼリオという規格外すぎる魔力容量と質に、ルシェラの小さな身体と魔導回路が耐えきれず、内部から崩壊を始めたのだ。
「ルシェラーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
激痛と自責の中で叫び、一瞬だけ気を取られた山田。
目の前の絶対的な強者――ヴァルゼリオが、その隙を見逃すはずもなかった。
鋼のごとき鋭利な手刀(貫手)が、山田の胸の中央を深く、容赦なく貫通した。
「…!!! ガハッ…」
ヴァルゼリオはその手を冷淡に引き抜く。
「愚かな幕引きだ… 興が醒めたわ…」
首筋から口が離れ、地面へと崩れ落ちる山田。
「…シェ…ラ…」
残った右腕も粉砕され、全身の外骨格は粉々に砕け、両足もあり得ない方向へと折れ曲がっている瀕死の山田。
彼は虫のように惨めに地を這い、力なく倒れ伏すルシェラへと必死に近付いていく。
光を失った虚空の瞳で見つめ、意識を完全に失ったまま、血の涙を流し続けるルシェラ。
その痛々しい顔を最後に視界に焼き付けながら――山田の意識は深い漆黒の闇へと消し飛んだ。




