第15話:静かな夜と、焦がし肉の香
### 第15話:静かな夜と、焦がし肉の香
先日の人間たちとの遭遇——彼らの怯えた顔と、向けられた鋭い刃。
あの一戦を経て、俺は以前の住処を捨て、さらに森林の深部へと足を踏み入れていた。
人間どもが容易に立ち入れない、より険しく、より過酷な秘境の奥地。
立ち塞がる凶悪な魔物を蹴散らしながら突き進んだ末に、鬱蒼とした巨木群と断崖絶壁の隙間に、俺はようやく手頃な洞窟を見つけ出していた。
奥行きは十分。雨風を凌ぐにはおあつらえ向きで、何より人里からは途方もなく離れている。
(ここなら……当分、誰も来ないだろ)
周囲から集めてきた太い乾いた枝や木々を洞窟の入口付近に積み上げると、俺は息を深く吸い込んだ。
(よし……上手くいくか……?)
喉の奥にある熱器官に意識を集中させ、軽く「ふっ」と息を吹き出す。
――ッゴー!!
口から放たれた猛烈な高熱ガスが薪に触れた瞬間、一瞬で真っ赤な炎が燃え上がった。
獲得したばかりのスキル【火炎吐息】。加減を誤れば森一つを焼き尽くしそうな威力だが、火種として使う分にはこれ以上なく便利な「天然のライター」だ。
「よし……ついた」
重く低い声が洞窟内に響く。
俺は火の脇にドサリと腰を下ろすと、道中で倒した巨大な角鹿の腿肉を取り出した。
太い枝に突き刺し、パチパチと爆ぜる炎の上にかざす。
じわじわと肉脂が滲み出し、ジューシーな音と共に香ばしい匂いが洞窟内に満ちていく。
生肉のまま喰らう強烈な飢餓感も悪くはないが、こうして火を通した肉の匂いを嗅ぐと、胸の奥に残る「人間」としての心が少しだけ解きほぐされていく気がした。
「……美味ぇ」
じっくり炙った塊肉にかぶりつく。
表面は香ばしくカリッと焼き上がり、中からは濃厚な肉汁が溢れ出す。塩も何もないただの炙り焼きだが、今の俺にとってはどんな高級料理よりも胃袋に染み渡るご馳走だった。
火の温もりに包まれながら、俺は膝を抱えるようにしてパチパチと燃える炎を見つめた。
(静かだ……)
異世界の人間たちに化け物と恐れられ、刃を向けられたあの瞬間。
俺は悟ったのだ。自らの意思で、もう**人間社会とは別離する**のだと。
(……まあ、今さら絶望するようなことでもないか)
苦笑交じりの思いが胸をよぎる。
あの時、異世界の人間たちに囲まれた瞬間——俺の頭に浮かんでいたのは、日本にいた頃の苦い記憶だった。
◇
昼休みのコンビニ前。
派手な髪色のDQN男とその彼女が、タバコを吸いながら店の前を占拠していた。
当時、160キロを超える肥満体で猫背だった俺は、ただ昼飯を買いに来ただけだった。
「……おい」
DQN男が俺を睨む。
俺は視線を落とし、できるだけ距離を取って通り過ぎようとした。それだけだった。
しかし、彼女が突然俺の肩を叩いた。
「ねぇ、今さぁ、ウチのこと見てきたよね?」
「い、いえ……見てないです」
「声ちっさ。キモッ」
彼氏がニヤつきながら近づいてくる。
「お前さ、歩き方がムカつくんだよ。なんでそんな陰気な顔してんの?」
意味が分からず固まる俺の頬を、彼女がいきなり平手で叩いた。
「デブのくせにコソコソ歩くなよ!」
「……っ」
周囲の客はスマホを見て知らんぷり。誰も止めない。
「ほら、謝れよ。ウチの彼女に不快感与えたんだからさ」
「……すみません」
「声ちっさ。腹から出せって言ってんだろ!」
もう一発、頬を叩かれた。
涙をこらえながら、ただ謝るしかなかったあの日常。
去っていくカップルを見送り、コンビニのガラスに映った赤く腫れた自分の顔を見て、俺は呟いたのだ。
『……俺、何したんだろ』
誰も答えてはくれなかった。
◇
病弱だった母さん以外、誰ともまともな接点がなかった日々。
存在しているだけで気味悪がられ、不条理に殴られ、化け物扱いされていたあの頃。
人間界にいた時から、俺はずっと孤独だったのだ。
姿が豚の化け物になり、住処が異世界の洞窟に変わったところで、周りの反応なんて最初から何も変わっていない。
(……むしろ、せいせいしたよ)
嫌でも他人の冷たい視線や暴力に晒されていたあの頃に比べれば。
誰の目も気にせず、好きなだけ肉を焼き、こうして体を横になれるここは——俺にとって、はじめから約束されていた安息の地なのかもしれない。
「ふぅ……」
口元についた脂を分厚い手で拭い、俺は横になり、洞窟の壁に大きな身体を預けた。
眠ることはできない。だが、静かに体を休めることはできる。
巨大な体躯を揺らす重い吐息が、温かい煙と共に洞窟の天井へと消えていく。
外の人間たちが俺を「最悪の魔人」と呼び、恐怖に怯えながら大討伐隊を編制し始めていることなど、今の俺には知る由もない。
孤独で、静かで、どこか温かい異世界の夜。
自ら人界を捨てた豚のおじさんは、満たされた胃袋の温かさに包まれながら、ただ静かに暗闇を見つめていた。




