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数か月後のある午後。
厨房から漂う焼きたての菓子の甘い匂いに誘われて、ロゼリアは足を運んだ。
料理長のマルセルが焼き上がったフィナンシェを、網の上に並べて冷ましていた。金色に焼けた生地から、蜂蜜の芳醇な香りが立ち上って、思わずごくりと喉が鳴る。
「お! さすが、お嬢さま。鼻が利きますな」
マルセルがにこやかにひとつを差し出す。手を伸ばしそうになるのをすんでのところで我慢する。
「だ、だいじょうぶ! おなかいっぱいだもん」
レオネルにあげなければいいのだけれど、触れないことが一番。
不慮とは思いがけずに起こるから不慮なのである。
なにがどうなって悲劇に繋がるかわからない。ぐっとこらえるロゼリアの後ろから、兄二人がやって来た。
「なにしてるの、ロゼ?」
「あっ、フィナンシェだ! 僕、これ大好き」
はしゃいだ声を上げたのはマクシムだった。
「マルセル。ひとつもらってもいい?」
「ええ、もちろん。そのために作ったのですから。ひとつと言わず好きなだけどうぞ」
マルセルの太っ腹な発言を聞いて、マクシムとカイゼルはフィナンシェを両手に包み込むように持った。
「ロゼは食べないの?」
「お嬢さまは今、おなかいっぱいだそうで」
「ふーん、そっか……あっ!」
なにかを思いついたカイゼルがぴたと足を止める。
「レオネルにもあげようよ、にいさま。きっと喜ぶよ」
名案とばかりに二人の瞳がきらりと輝くのを見て、ロゼリアは青褪めた。兄弟のやりとりをマルセルが微笑ましく眺める。
「レオネル坊ちゃんにあげるのでしたら、必ず奥さまにお声がけしてからにしてくださいよ」
「はーい!」
この屋敷の大人たちは、率先して甘いものを子どもたちに与えない。
が、それはアルノー夫妻の「味覚が成熟する前に与えるのは早いから」という方針に基づくものであり、蜂蜜に潜む危険を知る者は、だれひとりとしていなかった。
――ロゼリアを除いて。
「だめっ!」
考えるより先に体が動いていた。兄二人の両手からひったくるようにフィナンシェを奪うと、そのまま自身の口へ勢いよく放り込んだ。
「あっ、僕のフィナンシェ」
「おなかいっぱいって言ってたじゃないか!」
「ちがうもん。ぜんぶぜんぶ、わたくしのだもん!」
呆気にとられる兄たちの前で、ロゼリアは網の上に残っていたフィナンシェまですべて平らげてしまった。
「びっくりした。本当にフィナンシェが好きなんだね」
「にいさまたちの分まで、取っちゃうなんて。食いしん坊だなあ、ロゼは」
けらけらと笑う兄たちの声を聞きながら、ロゼリアは口の中に広がる、あの懐かしい甘さを、複雑な思いで噛みしめていた。
(う……食べ過ぎましたわ)
忘れようもない因縁の味。それでも今はこうして「食いしん坊な妹」を演じることこそが、だれにも余計な詮索をさせずに弟を守るための、いちばん自然な方法だった。
その小さな選択の積み重ねが、この先どんな運命の分岐を生むのか。ロゼリアにも正確にはわからなかった。
ただ、レオネルはすくすくと育ち、母セラフィナは変わらず健やかに、明るい笑い声を屋敷に響かせていた。
そして、あの少女――後妻の連れ子として、この家に迎えられるはずだった、光の精霊王に愛される少女の名も。アルノー家の食卓に上ることは、ついぞなかった。
だれも気づかぬところで、いくつもの運命の糸が、静かに、確かに、組み替えられていった。
◇
「案外楽勝でしたわね」
四歳になったロゼリアは、屋敷の裏手に広がる森の入り口で、ひとりごちた。先日、レオネルが一歳の誕生日を迎えた。つまり、前世の死を回避できたのだ。
「あとは、リュシアンさまとの婚約さえつぶせば、すべてがうまくいく」
つぶすといっても、両家の盟約もあるし、相手は王族だ。不敬に及べば、今度は公爵家の立場が危うくなる。
だからこそ、然るべき時に、然るべき手順でつぶしていくのだ。手間はかかるかもしれないが、あの理不尽な結末を思えば、今のところ、すべてが拍子抜けするほど順調だった。
思わず鼻歌が漏れそうになりながら、小さな足で森の奥へと踏み込んでいく。
供の者をまくのは、もはやお手のものだった。頭上の葉の隙間から、木漏れ日が金色の帯となって差し込んでいる。土と苔の匂い、鳥の囀り、葉のこすれ合う音――そのすべてが、胸の奥にじんわりとした懐かしさを呼び起こした。
足元では羊歯の葉が揺れ、遠くで小川のせせらぎがかすかに聞こえた。
(ドリィ……)
この森でドリィと出逢ったのは、七歳の夏だった。
迷子になって泣いていたロゼリアの前に突如として現れた木の精霊――上位精霊に数えられるドリィは人型をとることもできたし、森に生息する動物になら自由に姿を変えることができた。
あの日は幼い狐のような姿で現れて、涙でぐしゃぐしゃになったロゼリアの頬をそっと舐めて寄り添ってくれた。
(でもね、どんな姿になっていても、魂の形ですぐにドリィだってわかるのよ。だってわたくし、ソウルメイトなんですもの)
よく二人でもたれかかって話し込んだ一本の木にするりと手を添えた。太く頑強な幹。
見上げると、遥か頭上で緑の葉が、さらさらと音を立てている。
「こんなに大きな木だったかしら?」
首を傾げてみたが、すぐにその答えは出た。森の木々の大きさは変わっていない。ロゼリアが小さいのだ。
まるで「あと三年待て」と言われているような気がした。ふてくされて大樹の根元にそっと腰を下ろす。
目を閉じると、今にも木々たちの息遣いが聞こえてきそうだ。
「逢いたいな……」
囁くように紡いだ一言が、森の澄んだ空気にそっと溶けていく。その瞬間、目の前に淡い緑の光の渦が出現した。
ぐるぐると渦を巻きながら大きくなるにつれ、一層光も強くなっていく。周囲の木々の影が、その輝きを受けて揺らめいた。ロゼリアは思わず目を細める。
(この気配は!)
懐かしい。処刑前夜、何度一目だけでも逢いたいと願ったことか。
「ドリィ!」
しかし、光の中から転がり出るように現れたのは、変わり果てた姿だった。
全身傷だらけで、呼吸は弱々しく、今にも消え入りそうだった。こんなに小さな鳥の姿をしているのは、もはやこうしなければこの世に存在を留めておけないからだろう。
弾かれたようにロゼリアは駆け寄った。力なく地面に横たわる体を掬い上げた。
「どうしたの。こんなに弱って」
「ロ、ジー……?」
両の手のひらに、これまで感じたことのないほど弱々しい熱が伝わってくる。
「逃げ……ろ。帝国が攻めてきて、オルヴェリアはもう――」
かすれた声で告げられたのは、思いもよらない言葉だった。
《つづく》
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