第三話 滅びの未来[1]
「逃げ……ろ。帝国が攻めてきて、オルヴェリアはもう――」
そこでドリィの声が途切れた。
「ドリィ! しっかりして、ドリィ!」
ロゼリアは震える声で名を呼びながら、今は小鳥の姿をとるドリィの体をそっと包み込んだ。
羽毛の艶は完全に失われ、ところどころ地肌が覗く。指先に伝わる熱は、あまりにも弱々しい。
根元まで溶け崩れた蝋燭の残り火のように、いつ消えてもおかしくない儚さだった。
(どうしよう。このままでは……)
助けを呼ぼうか。
けれど、ドリィの存在をすべての人間が視認できるわけではないし、呼んだところで、弱った精霊の助け方など知っているわけもない。
焦りだけが幼い胸の中で渦を巻く。
そのとき、周囲を取り囲む鬱蒼とした木々に気づいた。森の中と外とでは空気中に含まれる魔素の濃度が違う。地の精霊王の影響が強いこの場所なら、あるいは――!
ロゼリアは藁にもすがる思いで、大樹の根元にドリィを横たえた。
「お願いいたします。どうかドリィをお助けください!」
森そのものに語りかけるように、瞳を閉じ、祈りを込めた。
返答があったのかどうかわからなかった。が、次の瞬間、ドリィの体をふわりとまばゆい光が包み込む。
葉擦れの音がいっそう優しく響く。まるで手を差し伸べるように、木漏れ日がドリィの体にそっと降り注いでいる。
弱々しかった呼吸が、少しずつ、少しずつ、安定していく。地面からも淡い緑の粒子が立ち上り、ドリィの周りに集まっていくのが見えた。
「祈りが届いたのだわ!」
ロゼリアが見守る中、十分も経たないうちに、ドリィは爪で地面を掻いて、むくりと起き上がった。
「はぁー、生き返ったぁ」
緊張感のない声に、ロゼリアは思わず脱力した。
「もう! 心配したのよ」
「ごめんごめん。でも本当に助かったよ。この森に満ちる魔素と相性がいいみたい。さすがは故郷の森だ」
ドリィは何事もなかったかのように、パタパタと小さな羽音を立てて、ロゼリアの右肩に舞い降りた。「生き返った」という言葉のとおり、すっかり美しさを取り戻した羽毛が、木漏れ日を浴びてキラキラと輝いている。
のんびりとした話し方に、張り詰めていた心がとほぐれていく。
「ドリィったら。死線をさまよっていたから、悪夢を見ていたのね。帝国が攻めてきたなんて――」
「いや、本当の話だよ」
「……っ、まさか! いつの間に開戦したの? すぐそこまで迫っているの?」
一拍の間があった。ドリィの光が、少しだけ翳る。
「ちゃんと話すよ。でも、その前に……」
肩に止まるドリィは、ロゼリアを見つめたあと、頭上で一周旋回して、空中で姿を変えた。
深緑の長い髪からは尖った耳が飛び出して、中性的な顔立ちは美少年のようでもあるし、華奢なラインは少女のようでもある。
気分屋なドリィがいろいろなものに姿を変えるため、忘れがちなのだが、これが本来の姿だった。
「会いたかったよ、ロジー!」
「わっ!」
喜びを爆発させるドリィは、ロゼリアに上から覆いかぶさるように抱擁する。
気持ちはわかる。わかるのだけれど、この非常事態において、なにを優先すべきかは一目瞭然だ。
ドリィの腕の中でロゼリアは必死に藻掻いていた。
帝国が侵攻を開始したのであれば、それと接する、王家の剣たるアルノー家が真っ先にその切っ先を受け止めることになる。
「お願い、ドリィ。一度屋敷に戻らせて。お父さまはこのことをご存知ないかもしれない。もしそうなら、一刻も早く報せなくてはいけないの!」
逸る気持ちに任せて早口にまくしたてるが、肝心のドリィはぽかんと口を開けて、首をひねるだけだった。
しばらく唸ったあと、合点がいったようで、ドリィは「ああ!」と声を上げる。
「どうしてそんなに体が小さくなっているかと思ったら、そういうことか! だんだんわかってきたぞ。ひとまず落ち着いてロジー。さっきぼくが言ったのは今起きていることじゃない」
これみよがしに顎に手を当てたドリィは、大真面目な顔をしてゆっくりとその場を歩き始めた。
「……ふむ。実に興味深いですな」
珍しく低い声で呟くと、名探偵さながらに自身の見立てを語りだした。
思考に深く没頭しているのか、生えてもいない髭をしごくような指の動きは、別のだれかになりきっているとしか思えなかった。
「つまり、ロジーは死んだけれど、もう一度幼体からやり直しているんだね。そして、元の時間軸にいたぼくは、ロジーの魂に引っ張られてここに来た。――合ってる?」
「そ、そうね。大方合っているわ」
「……命の灯が消えようとしている中、ぼくはなにかに強く引き寄せられる感じがした。あれはロジーだったんだ」
精霊と人間の種族の違いによるものか、それとも単にロゼリアの頭が固いだけなのか。ドリィは現状の把握をすませ、この不可解な現象について独自の見解を導き出した。
まだこの世界に降り立ってから半刻と経っていないのに、ロゼリアに追いついたばかりか追い越している。
(なぜそんなにすんなりと受け入れられるの? わたくしはひと月もかかりましたのに! なんだかずるいわ)
悔しいような悲しいような、割り切れない思いと人知れず葛藤していると、ドリィが寂しそうに目を伏せた。
「やっぱりそうだったか。死んじゃったんだね、ロジーは」
「ごめんなさい、ドリィ。お別れも言わずに」
「それはお互いさまだよ。ぼくだってロジーがそんな目に遭っているとも知らずに……ごめんね。でも、結果的に言わなくて正解だったと思わない? またこうして会えたんだから」
「ふふ。そうですわね」
ドリィが一本の木の根元に腰を下ろして、にこりと微笑んだ。言葉は一切なかったがそれだけで通じる。
離れ離れだった四年分の空白を埋める愛おしい時間の始まりだった。




