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◇
一歳になったころ、ロゼリアはようやく、指を思い通りに動かせるようになってきた。
手のひら全体で握りしめることしかできなかったのが、今では親指と人差し指で、小さなものをつまめる。
乳母が驚いて拍手するほどの成長だったが、当のロゼリア自身は、もっと切実な理由からこの日を待ちわびていた。
(今のうちに、書き残しておかなくては)
前世の記憶はまだ鮮明だ。けれど、この幼い頭では、いつまでその鮮明さを保っていられるかわからない。
人の記憶とは、本来、時間の経過とともに薄れていくものだ。ならばせめて、要点だけでも紙に留めておきたい。
育児室の隅。だれも見ていない隙を狙って、ロゼリアは椅子によじ登ると、机の端に置かれていた羽根ペンを掴んだ。
インク壺に浸し、震える手で紙の上に運ぶ。
――王太子。婚約破棄。メリゼル……
頭の中でははっきりと文字が浮かんでいる。けれど、いざペン先を紙に落とすと、筆圧がないうえに、腕が情けないほど震え、思うように動いてくれない。
にじんだインクが紙の上に、ぐにゃぐにゃとした線を描いていく。
書き終えて、できあがったものを見下ろし、ロゼリアは愕然とした。
そこにあったのは、無数のミミズが這いずり回ったような意味不明な染み。とてもじゃないが文字と呼べるものではなかった。
(だめだわ。なにを書いたか、自分でもわからない)
思わず漏れた呟きは、舌足らずな喃語にしかならなかったけれど、その落胆だけは本物だった。
ペンを持つ手に、もう一度力を込めようとする。だが、指先はすでに疲労で強張っている。
眠気がじわりと瞼の裏から押し寄せてきた。
あれほど強い意志を持っていたはずなのに、この体はあまりにも早く限界を迎えてしまう。
悔しさと眠気がせめぎ合い、やがて眠気が静かに勝利を収めた。
「あら、まあ。ロゼリアさま、こんなところで。インクだらけじゃないの!」
乳母が駆け寄ってきたころには、ロゼリアはすでに机に突っ伏し、すやすやと寝息を立てていた。小さな両手にはインクがべったりとついている。
「女の子はませているって本当ね。大人の真似して羽根ペンなんて」
一般的に羽根ペンの練習を始めるのは、六歳ごろからだ。長兄のマクシムですら、まだ持ったことがないだろう。
苦笑交じりに呟く乳母の声は、ロゼリアには届いていなかった。
けれど、完全に眠りに落ちる寸前、彼女は意識の片隅で密やかな決心をしていた。
(今日はだめだった。だったら明日リベンジよ。何度でも書いてやるわ)
体は心に追いついていないが、焦る必要はない。時間はたっぷりとあるのだから。
◇
ロゼリアは三歳になり、屋敷中を駆け回れるようになっていた。
その日、屋敷はいつもと違う、張り詰めた空気に包まれていた。産室には産婆や侍女たちが忙しなく行き交い、時折、扉の奥からセラフィナの呻き声が漏れ聞こえてくる。
ロゼリアは兄たちと共に廊下の隅に座らされ、部屋には入るなと言い含められていた。
(大丈夫……大丈夫よ、ロゼリア)
胸の奥で言い聞かせるように繰り返す。今日という日を心待ちにしていたことか。
かわいい弟が生まれる日。けれど、同時に苦い後悔も蘇ってくる。
(今度こそ、間違えませんわ!)
やがて、部屋の奥から産声が響いた。力強い、新しい命の声。
「お生まれになりました! 元気な男の子でございます!」
侍女の弾んだ声に、廊下で待っていた父オーギュスタンが、大きく息を吐いた。マクシムとカイゼルが、顔を見合わせて歓声を上げる。
「弟だ! 弟が生まれた!」
ロゼリアもまた、駆け寄りたい衝動を抑えきれずにいたが、オーギュスタンと子どもたちに産室への立ち入り許可が下りたのは出産から三日後だった。
室内はきれいに整えられていたが、命がけの分娩を終えた母の顔には、疲労の色がまだ濃く残っていた。
「よくやったラフィ。君も赤ん坊も無事で……なんて素晴らしいんだ。本当にありがとう」
真っ白な産着に包まれた我が子を妻ごと、その腕に抱きしめる父。
しわくちゃの顔で今にも泣きだしそうになっていた赤子が、口元をきゅっと結び、やがて穏やかな表情になる。
「泣くのをこらえたのか? 強い子だな。ラフィ、この子の名前を決めたぞ」
父は小さな額に張り付いている柔らかな金色の産毛を指先でそっと撫でると、深い慈愛をにじませ、微笑んだ。
「……レオネル」
ロゼリアはその名を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。この子の名前がレオネルだと前世から知っていたはずなのに。
「ロゼリア。こちらへいらっしゃい」
兄たちの影から遠慮気味に覗き込んでくるロゼリアを見て、母が手招きする。
――レオネル。
あの日、医師の懸命な治療の甲斐なく、刻々と弱まっていた命の灯は、ついに最期の瞬間を迎えた。救えなかった。小さな弟。
「あなたのお姉さまですよ、レオネル」
母に促され、そっと弟の頬に触れた。
柔らかく、温かい。なにもかもが壊れそうなほど小さなその体に、どうしようもなく愛おしさが込み上げてくる。
(今世ではもう、あんな悲劇は繰り返さない!)
脳裏に浮かぶ前世の記憶を戒めに、ロゼリアは一層決意を固くした。




