第十七話 祝福の帰郷[3]
前世でも、デビュタントを迎える前に、こうしてリュシアンと壇上に並んで立った。けれどここに至るまでの経緯がまるで違う。
そもそも、婚姻誓約書の父の署名の下に自身の名を書き添えたのも、王都ではなかった。
立太子の儀、臣従の礼を終え、ノエルヴァルトに帰ってしばらく経ってから、王都から遣わされた使者がはるばるアルノー邸までやって来た。
応接間で使者が持参した誓約書に父とともに署名し、使者はそれを恭しく抱えて王都へ帰っていった。
婚約発表のために、あらためて王都への召集がかかったのは、それから何か月も経ってからだ。
それが今世では、立太子の儀の熱も冷めやらぬうちに、王都に集った貴族たちがまだ領地へ帰らぬうちに、すべてが流れるように片づいていく。
(宰相家に横槍を入れる隙を与えないためかしら。それとも、諸侯が王都にいるうちに済ませれば、再召集の手間と費用が省けるから? まあ、どちらにせよ合理的ですけれど)
ロゼリアの胸の内には、小さな違和感が残っていた。
前世と今世といっても、時代が違うわけでもない。宮廷の慣例が見直されたとは考えにくい。とすると、
(リュシアン殿下がお急ぎになった? まさかね)
その可能性に思い至った瞬間、ロゼリアの胸がとくんと跳ねた。
月光の差す回廊での、あの噛み合わない会話を思い出す。「紐解きたくて仕方がない」というあの謎めいた一言。
もしもあの言葉に込められていたものが、ただの戯れではなかったのだとしたら。
ロゼリアは小さく首を振った。今はそのような空想に浸っている暇はない。婚約が早く調ったことは好機だ。
前倒しで成ったことで、次の一手について、あれこれと構想を練る時間が生まれた。
(そして、来年誕生日を迎え十五になったら、いよいよわたくしのデビュタントですわ)
隣に立つリュシアンの気配がすぐそばにある。肩が触れそうで触れない距離。
視線を感じて見上げると、青い瞳がこちらを見下ろしていた。
「先ほどからどうした? 眉を寄せたかと思えば、首を振り。具合が悪いのか」
「いいえ、なんでもございませんわ」
前世のロゼリアはこの場所に立つことを誇りに思っていた。
王太子の婚約者という肩書きこそが、自分の価値のすべてだと信じていた。
今は違う。
これは目的ではなく手段だ。
ロゼリアは拍手に応えて、ゆっくりと礼をする。その胸の内で、静かに誓いを新たにした。
今度こそ、この国を守るために。
◇
魔導列車が速度を落とし、長い汽笛を鳴らした。
窓の向こうを、見慣れた景色が流れていく。黒々とした針葉樹の森。その切れ間に、北の山並みが霞んで見えた。
王都ではとうに花の盛りを迎えているというのに、ここノエルヴァルトの春は、ようやく目を覚ましたばかりだ。
「お嬢さま、まもなく到着いたします」
向かいの席でカトリーナが膝の上の手荷物を整えながら言った。
「ええ」
ロゼリアは窓枠に指を添え、近づいてくる小さな駅舎を見つめた。王都の壮麗な中央駅とは比べるべくもない素朴な石造りの建物に、胸の奥がふわりと温かくなる。
やがて、鉄の車輪が軋む音を立てて止まり、扉が開いた。
ひやりとした空気が頬を撫でる。遠くの山から吹き下ろす、かすかに冷たい風。
肺の奥まで吸い込むと、濃厚な甘い香水や葡萄酒の匂いが、すーっと洗い流されていく。王都の喧騒、張り詰めた儀礼の日々――それらが少しずつ遠ざかっていき、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。
ロゼリアはマクシムの手を借りて乗降口の段を下りた。
靴底がノエルヴァルトの土を踏む。
帰ってきた。
公爵令嬢としてだけではない。王太子リュシアンの婚約者という、至上の誉れを胸に抱いて。
駅から屋敷へ向かう馬車の中で、ロゼリアは外の様子が妙に騒がしいことに気がついた。
街道沿いにぽつりぽつりと人影が立っている。
農具を手にした男たち、赤ん坊を抱いた女、泥だらけの子どもたち。皆、馬車に刻まれたアルノー家の紋章を見ると、帽子を取って深々と頭を下げた。中には手を振りながらなにやら叫んでいる子どももいる。
「……お父さま、これは」
「婚約の報せは早馬で先に送っておいたからな」
オーギュスタンは誇らしげに口元を緩めたが、茶色の瞳はどこか切なげに遠くを見つめていた。隣のマクシムが、肩をすくめて小さく笑う。
やがて木立の向こうに、灰色の石壁と大きな屋根が見えてきた。屋敷の前にはすでに大勢の人が出迎えに集まっていた。
使用人たちだけではない。鎧を身につけた兵士たちまでもが、ずらりと並んでいる。
馬車が止まり、御者が扉を開けた瞬間、どっと声が上がった。




