第十七話 祝福の帰郷[1]
「悪いお人だ、殿下も」
燭台の陰で杯を傾ける紳士たちがひそひそと囁き合う。
玉座の間の片隅で交わされたその声は、楽団の奏でる軽やかなメヌエットに紛れ、すぐにさざめきの海へと溶けていった。
「すでに心に決めていらっしゃったのなら、そうおっしゃればよいものを」
「そういうわけにもいかんだろう。ご自分の立太子の儀も控え、ほかに三人の候補者がいる手前、慎重に機を見極めていらしたのだ」
だが、同じ話題はそこかしこで繰り返されていた。
扇の陰で目配せし合う貴婦人たちも、葡萄酒で頬を染めた老伯爵も、口にするのはただひとつ。王太子の隣に並び立った赤い髪の少女のことだった。
その渦中の人物――ロゼリア・ド・アルノーを前室の扉の前まで送り届けたリュシアン・ド・オルヴェリアが、玉座の間へ戻ってきたのは、宴が最も盛り上がる刻限だった。
重い両開きの扉を近衛兵が押し開けた瞬間、むっとするほどの熱気に出迎えられた。
厳粛な臣従の礼を終えたはずの場に、今は酔いの熱がこもっている。
楽団の奏でる軽やかな旋律に合わせ、ほろ酔いの貴族たちが手を取り合い、あちこちでステップを踏んでいた。
杯の硝子が触れ合う軽い音。弾けるような笑い声。片隅では若手の騎士たちが、頬を赤くしながら声高に武勲を語り合っている。
「『堅苦しい話はここまでとし、皆、存分に楽しんでほしい』……とは言ったが」
リュシアンは苦笑すると、小さく息を吐き視線を落とした。
月明かりが落ちる回廊を二周歩いた。前室の扉の前で、ロゼリアは淡い色のドレスをつまみ、完璧な角度でカーテシーを捧げた。「おやすみなさいませ、殿下」と凛とした声が今も鼓膜を甘く震わす。
――「人違いなのでは?」
本当に心当たりがないという顔だった。あれが演技だとすればたいした役者だ。そうでないとすれば――。
「殿下!」
思考は弾むような声に遮られた。
「本日の立太子の儀、臣従の礼における殿下のお姿、実に見事な威風にございました!」
「これで我が国の未来も安泰ですな」
気がつけば、杯を手にした貴族たちに囲まれていた。
普段であれば遠巻きに控え、恭しく頭を垂れる者たちが、今夜ばかりは酒の勢いも手伝って、ぐいと距離を詰めてくる。
声もいつもより大きく、幾分砕けた口調。祝宴ならではの無礼講の空気が、そうさせているのだろう。
「ああ。皆の忠誠、確かに受け取った」
リュシアンが短く頷くと、恰幅のよい子爵が、待ちかねたとばかりに栓の抜かれた瓶を掲げた。
「我が領地自慢の名酒です。不躾ながら一献お注ぎする無礼をお許しいただきたく!」
断る理由もなく、リュシアンは差し出された杯を受け取る。とくとくと心地よい音が鳴り、深紅の液体が注がれていく。
「ありがたくいただこう」
周囲からわっと歓声が上がる。
幾つもの祝いの声に迎えられながら、リュシアンはようやく、玉座の間の最奥へと辿り着いた。
その一段高い場所で、国王フレデリックは肘掛けにゆったりと身を預け、緑の瞳を楽しげに細めて広間を見下ろしている。傍らでは王妃オフィーリアが扇の陰でくすりと笑い、祝宴の喧騒を満足そうに見渡していた。
「戻ったか、リュシアン」
「はい。父上、母上」
一礼して顔を上げると、王妃が青い瞳をいたずらっぽく輝かせていた。リュシアンの瞳と同じ色。その色がこういう光を宿すとき、たいていろくなことにはならない。
「母も見たかったですよ。あなたがロゼリア嬢と並ぶところを」
王妃は扇をぱちりと閉じ、ほうっとため息をつく。
「あの子の薔薇のような赤い髪と淡い藍のドレス。あなたのマントの裏地の深紅と大綬の青が、まるで最初からそう誂えたように映えて。広間中が息を呑んでいたそうね」
「しかもだ」
待っていましたとばかりに国王が身を乗り出した。口元に添えた指先が、愉快でたまらないといった風に、楽しげに顎鬚を撫でている。
「祝宴に参加できないアルノー公爵令嬢を、従者のもとへわざわざ送り届けたと聞いたぞ? 主役である王太子自らが、だ。随分と気に入っておるようだな」
壇の下に控える近衛騎士の肩が、わずかに震えた気がした。笑いを堪えているのか。
リュシアンはじろりと一瞥してから、手の中の杯をひと口あおる。芳醇な酒が喉の奥を焼きながら滑り落ち、腹の底がかっと熱くなった。
「お二人に言われたくありません」
国王と王妃がちらりと顔を見合わせる。
「まあ、聞きまして? 陛下」
「うむ。言うようになったものだ」
声を揃えて笑う両親にリュシアンは額を押さえたくなった。もっとも、言い返したところで否定にはなっていないのだが。




