第十六話 金獅子と紅薔薇[2]
(けれど、諸侯の末席に甘んじる身でどうやって?)
儀礼官がゆっくりと羊皮紙を巻き進めていく。その瞬間、玉座の間の空気が変わったのを、ロゼリアは肌で感じた。周囲の貴族たちがそっと襟を正す。
「――続いて、国内貴族の臣従の礼に移る」
儀礼官の言葉に玉座の間の空気が、一層引き締まった。先ほどとは別の種類の緊張感が、広間を静かに満たしていく。
ロゼリアは小さく息を整えた。次は、いよいよ自分たちの番だ。
◇
「国内貴族筆頭――宰相フォントネー公爵家、前へ」
儀礼官の声が響く。
最初に呼ばれたのは、やはり宰相閣下だった。全貴族の筆頭、だれも文句のつけられない最高序列と言ってもよい。
そう。これこそ、臣従の礼のほうが上下関係を明確に突き付けられる最大の理由だ。
文官たちが何日もかけて精査し、古き法と伝統に照らして並べた貴族の絶対的な序列。
だれが先に呼ばれ、だれがあとに回されるのか。ここで呼ばれる順番は、言葉よりも雄弁だ。
誇らしげに歩み出たのは、恰幅のよい白髪交じりの男だった。
宰相フォントネー公爵。そして、その隣に赤いドレスを纏った令嬢が並び立つ。
エレオノールだ。
ブロンドベージュの髪を結い上げ、ルビーの髪飾りを輝かせている。
国政の頂点に立つ家の娘として一切の遠慮を持たない、堂々たる佇まいだった。
人々の視線が吸い寄せられるように彼女へ集まっていく。
そのことをエレオノール自身がだれよりも知っているのだろう。顎をわずかに上げ、口の端に優雅な微笑をたたえ、父の半歩後ろを歩いていく。
宰相がリュシアンの前で静かに跪く。差し出された王太子の手を取り、その甲に唇を寄せた。
「我が身、我が知略は、殿下とこのオルヴェリアの栄光のために。改めて揺るがぬ忠誠を誓い奉ります」
続いて、エレオノールがカーテシーを捧げる。
その所作に周囲からため息交じりの称賛が漏れた。
(お見事ですわ。悔しいけれど)
あれは一朝一夕で身につくものではない。幼いころから磨き抜かれてきた所作だ。
臣従を終え、宰相が立ち上がる。エレオノールもゆっくり身を起こした。その視線が、人々の頭越しに遠く離れた入り口付近に立つロゼリアを捉えた。
ブラウンの瞳がすっと細められる。紅を引いた唇が弧を描き、隠しようのない優越の笑みが浮かぶ。「わたくしの勝ちですわ」と、言葉にせずとも、はっきりとそう告げていた。
ロゼリアは黙ってそれを受け止めた。
ぴくりとも表情を動かさないロゼリアに、エレオノールはつまらなさそうに小さく鼻を鳴らすと、父に続いて人垣の向こうへ下がっていった。
途端に、周囲の貴族たちの囁きが、さざ波のように広がっていく。
「やはり宰相殿が貴族筆頭。王太子妃もエレオノール嬢で決まりか?」
「いやいや、シャンテリーとの同盟も無視できないだろう。アンヌ王女を迎えれば、両国の結びつきはさらに盤石なものとなる」
「なんだ知らないのか? 王家はとある家と古くから盟約を結んでいるそうだ。その家こそ――」
「次、アルノー公爵家、前へ」
儀礼官に名を呼ばれ、ロゼリアの心臓がどくんと大きく跳ねた。
玉座の間の前方に控えていたオーギュスタンとマクシムが、リュシアンの前に進み出る。ロゼリアも人混みを縫うようにして、玉座へと続く直線上へ躍り出た。
前方では父と兄が揃って跪く。
「我がアルノー公爵家は、未来永劫、殿下の御盾となり剣とならんことをここに誓います」
オーギュスタンの声は芯の通った響きを持っていた。長年、辺境の最前線を守り抜いてきた者の重みのある言葉だ。
父と兄に続き、ロゼリアはペールサファイアのドレスの裾を、指先でつまむ。銀糸の刺繍が玉座の間に満ちる光を受けて、そっと揺らめいた。
指の先まで神経を行き渡らせる。呼吸ひとつ乱さない。
心からの敬意をこめて、これまでの人生で最も深く、最も美しく、カーテシーを捧げた。
(遠い……。けれど、いまのわたくしには、これが精一杯ですわ)
デビュタント前の身では、父と兄に並び立つことは叶わない。だからこそ、この一礼に込められるだけの想いを全部込めたつもりだった。
ゆっくりと顔を上げたとき、壇上の両陛下が揃って口元を綻ばせているのが見えた。優しい、歓迎するような眼差し。
――その刹那。
リュシアンと目が合った。そんな気がした。
ほんのわずかな、瞬き程度の時間。ロゼリアの都合のいい勘違いだったかもしれない。けれどほんの一瞬、ほかのだれでもなく自分のところで止まったように思えた。
(必ずや覚えていてくださいませ。わたくしのことを)
かすかな手ごたえを胸に、心の中でつぶやく。臣従の礼という儀式において、ひとつの爪痕を残せたような気がした。




