第十四話 壮麗たるステラフォンテーヌ[4]
「ここでなにをなさっているの?」
唐突な声に、メリゼルはびくりと肩を震わせ振り返った。
開いた扉の先に立っていたのはロゼリア――そしてその背後に控えるようにして、専属侍女のカトリーナがこちらをじっと凝視している。
「っ、あ……あの」
みるみるメリゼルの顔から血の気が引いていく。
「わ、私、そんなつもりじゃ……」
言い訳の言葉が途中で尻すぼみになる。
なんでもない、と否定したところで、その手には書斎と廊下の蝋燭を灯した火種のキャンドルホルダーが、しっかりと握られている。
しかも、本当になにもなかったのかと問われれば、即答できない後ろめたさが、メリゼルの胸の中にはあった。
メリゼルのその表情を見て、カトリーナの纏う空気がわずかにひりつく。
「大丈夫よ」
いち早く気づいたロゼリアは、そっと手を上げて侍女を制した。
「ですが、お嬢さま……」
「そんなつもりではなかったのよね?」
静かな声でメリゼルに問いかける。詰問するでもない。ただ確認するだけの口調だった。
思い返せば、今世では、言葉を交わす機会はめっきり減っていた。
メリゼルがアルノーの屋敷に来てから七年。
公爵令嬢とその家に仕える下働きのハウスメイド。立場の違いゆえに、二人の間に接点はほとんど生まれなかった。
「……はい」
か細い声で答えるメリゼルに、ロゼリアは小さく頷いた。
「戻っていいわ。まだこのあとにやることも控えておりますでしょう?」
「は、はい! ありがとうございます」
一礼すると、メリゼルは足早に衣装部屋を去っていった。その後ろ姿が廊下の角に消えるのを、ロゼリアは黙って見届ける。
「よろしいのですか?」
カトリーナが心配そうに問いかけた。
「ええ」
ロゼリアは短く答える。
なにもなかった。これが事実だ。
使用人たちとの間に結ばれている信頼関係により、施錠を怠ったこちらにも落ち度がある。最高級品が集まるこの部屋。不用心だと言われたら反論できない。
「衣装部屋は施錠の上、今夜より見回りを増やします」
カトリーナのきっぱりとした申し出に、ロゼリアは小さく笑みを浮かべた。
「ありがとう、カトリーナ。頼もしいわ」
二人だけになった衣装部屋で、ロゼリアはトルソーの纏うドレスをもう一度見つめた。
白布の下に揺らめく銀糸の刺繍に縁取られた優雅で可憐なシルエット。
こうして客観的に眺めても非の打ちどころのない美しい輪郭に、あらためてため息がもれる。
細部までこだわり抜いて注文した甲斐あって、実に見事な仕上がりだ。
しかし、先ほどのメリゼルが残していった昏い眼差しの余韻が、まだ部屋に沈んでいるような気がした。
◇
第三の月――新芽の月も中旬を迎え、夜気の匂いに春の気配が濃く混ざり合う季節。
王都ローズエマリスは、前夜祭の余韻を引きずったまま、この日を迎えていた。
表通りには、昨夜の祝宴で焚かれた巨大な篝火の燻った灰から、薄い煙が朝露の中に立ち上がっている。夜通しのどんちゃん騒ぎのあとでも、人々の表情には疲労よりもむしろ高揚の色が強くにじんでいた。
今日という日が、ついに訪れたのだ。
オルヴェリア王国第一王子、リュシアン・ド・オルヴェリアの十五歳の誕生日。すなわち、立太子の儀、臣従の礼の当日である。
アルノー公爵家の別邸は、朝から目の回るような忙しさに包まれていた。
現公爵、次期公爵、そして公爵令嬢。
この三名を一人も欠けることなく、万全の姿で送り出さねばならない。もはや仕事の範疇を超えていた。いかに完璧な状態で主人を送り出せるか――使用人たちの誇りと威信をかけた戦いが始まっていた。
使用人たちが廊下を絶え間なく行き交っている。
「お嬢さま、こちらでよろしゅうございますか」
カトリーナが昨晩のうちに水切りをしておいた白薔薇を持ってきた。
両陛下との拝謁の際、こっそり王妃オフィーリアにステラフォンテーヌ宮殿の庭園に咲いた白薔薇を、立太子の儀に合わせて数本ほしいとねだっておいたものだ。
最後の仕上げに、白薔薇を銀細工の髪飾りに丁寧に結わえていく。
鏡に映る自分の姿を、ロゼリアは、じっと見つめた。
ペールサファイアのドレス。首元を飾る上品なパールのネックレス。銀細工の髪飾りにあしらった白薔薇がロゼリアの赤髪に映えている。
これまで積み重ねてきたすべてが、今ようやく、ひとつにまとまり、完成形へと結実した気分だった。
「ええ、完璧よ。ありがとう、カトリーナ」
鏡の中の自分に向かって、小さく頷く。
けれど、その胸の奥では、高揚と緊張とがせめぎ合うように、せわしなく渦巻いていた。
今日という日はロゼリアにとって、特別な意味を持っていた。
正式な社交界デビューに先駆けて、国家の大典へ参列する。
そして、なによりも今世のリュシアンと初めてまみえる日。
(ついにこの日が来ましたのね)
贈り物をとおして、すでに彼の心には楔を打ち込んである。
両陛下との拝謁の際に、賜った言葉をそのまま受け取れば、リュシアンにも好印象を植え付けられていたようだった。
あとは直接この目で、その反応を確かめるだけだ。胸の奥で、小さく心臓が早鐘を打つ。
「ロゼ、支度はできたか」
ノックに続いて扉の向こうからマクシムの声が響く。
「ええ、お兄さま。ただいま参りますわ」
廊下に出るとわずかにマクシムが目を見張る。ロゼリアもまた礼装に身を包んだ兄の姿に、しばし言葉を失った。
「きれいだ、ロゼ。美しすぎてほかの男に見せるのは惜しいな」
「ありがとうございます。お兄さまも、そんなにご立派でいらっしゃるのに、なぜ婚約者選びに難航なさっているのか、甚だ理解に苦しみますわ」
「その話題でからかうな。カイゼルだけで十分だ」
賑やかに軽口を交わしながら、兄のエスコートで慎重に階段を降り、エントランスホールに向かう。
エントランスホールには、使用人たちが見送りのためにずらりと列を作っていた。
その先に、父オーギュスタンも、すでに準備を終えて立っている。
三人は揃って顔を見合わせると、言葉少なに深く頷いた。
儀式は午前と午後に分けて執り行われる。
まずは、立太子の儀が執り行われる王都のエペ・ド・マリス大聖堂へ。その後、場所を王宮に移し、臣従の礼が行われることになっている。
馬車に乗り込む直前、ロゼリアはふと立ち止まり、朝の澄んだ空を見上げた。春と言ってもまだ冬の冷たい名残りを含んだ空気。
「いってらっしゃいませ」
見送りの使用人たちの言葉に、
「いざ」
小さくそうつぶやくと、ロゼリアは父と兄に続いて馬車へと足を踏み入れた。扉が閉じ、車輪が石畳の上をゆっくりと回り始めた。
前世とはまったく違う形で迎える立太子の儀、臣従の礼。
この道の先に続く運命とその結末を、ロゼリアはまだ知らない。
それでも、ただひとつだけ、心に決めていることがある。
どんな未来が待ち受けようとも、今度こそ、自分の手で切り開いてみせる、と。
❖ つづく ❖
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