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◇
――どくん。
どくん。
大きな鼓動の音だけが、暗闇の中に響き渡っていた。
温かく柔らかいなにかに、そっと包み込まれている。
まるでだれかの腕の中にいるみたいだ。優しく、壊れ物を扱うような感触に、なぜかひどく懐かしい気分になる。
(……これはなに? わたくしはいったい)
そう尋ねたつもりなのに暗闇の中に、小さな声が響いた。
「あー……う」
目を開けてみる。かろうじて光が射していることはわかるが、すべての輪郭があいまいだ。
痛くも、苦しくも、冷たくも、熱くもない。
どうやら地獄ではないらしい。ということは天国なのだろうか。
懸命に腕を伸ばすと、手のひらに温かな感覚が触れた。反射的にきゅっと指の先まで閉じると、くすっとだれかの笑い声がした。
「まあ、そうよ。わたくしがあなたのお母さまよ」
慈しむようなような優しい感触が額にそっと落とされる。
そして再び柔らかなぬくもりに閉じ込められた。
どくん。
どくん。
聞き覚えのある鼓動に包まれる。
(ああ。先ほどの音はお母さまの心音でしたのね)
懐かしさを覚えた理由が明らかになり、妙に安堵が込み上げる。
「今、笑ったぞ。なんて愛らしいんだ。俺にも抱かせてくれ」
「もうオギーったら」
オギー。
その愛称にはっとする。使用人の前だというのに、ふとした拍子に口を突いて出てしまうほど仲睦まじい両親の姿を思い出した。
母の体温を離れ、次は力強く逞しい腕に抱かれる。声はずいぶんと若い。けれどそれは、十八だった彼女があの日、鉄格子越しに触れた父のぬくもりと完全に重なった。
これはいったいなんなのだろう。都合のいい夢を見せられているのか。もうこの際、夢でもなんでもいい。
こらえきれず、喉の奥から泣き声がほとばしると父が焦り始める。
「ど、どうした? 力みすぎたか?」
そうではない。うれしいのだ。なんならもっと強い力で抱きしめてほしいくらいだ。
しかし、思いは形にすらならない。なんと歯がゆいのだろう。
「そうだ、お父さまが名前を決めてきたぞ。きっと気に入るはずだ」
「ふふっ、生まれて一週間よ。言葉もわからないのに気に入るもなにもないわ」
まだ視線も定まらない愛娘のご機嫌取りが始まっている。
早くも親バカの片鱗をのぞかせる父は淡く赤みがかった産毛を愛おしげに撫でる。
「庭園の薔薇が絢爛と咲き誇っていた。でも、そのすべてを束にしても俺の天使の前では霞んでしまうよ。ロゼリア……」
十八年間、使ってきた名前のはずなのに。
その響きが父の口から発せられたとき、どうしようもなく胸が熱くなった。
小さな拳を握りしめ、夢と現実の区別もあいまいなまま、意味もわからぬまま、ロゼリアは小さな胸には抱えきれない感情の渦に耐えきれず、泣き出してしまった。
小さな赤子は、まだなにも知らない。
この先になにが待っているのか。
そして、人生のやり直しを許されたことを――。
《つづく》
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