第十三話 最初の一手[1]
家族が集う書斎に沈黙が下りる。
オーギュスタンはつい先ほど読み終えた書状を見つめながら、しばしの間、黙り込んでいた。名指しされたマクシムはもちろんのこと、セラフィナもカイゼルもレオネルも、皆、緊張した面持ちだ。
その張りつめた空気をよそに、ロゼリアの脳内ではまったく別の思考が勢いよく巡り始めていた。
(紺碧のドレスに、ルビーの髪飾り……いいえ、あまりに華美すぎてはだめね。まだデビュタント前ですもの。かといって地味になりすぎてしまっても、祝典にはふさわしくありませんし)
無意識のうちに、顎に指を添えていた。
今から装いのことを考えるなど、いささか気が早すぎだろうか。いや、でも考えずにはいられなかった。
立太子の儀、そして臣従の礼。それは、次代の王を戴く、国家最高の大典。と同時に、参列するすべての者の品格が容赦なく値踏みされる、社交という名の戦場でもある。
もし、そこで不調法を働けば、アルノー公爵家の名に傷がつきかねない。身にまとうドレス一着の選定すら、決して妥協は許されない。
そこまで思い至り、ロゼリアはすぐさま強引にそれらを振り払った。
(いいえ。どれも建前にすぎませんわね)
前世の立太子の儀では、父の後妻となったカミーユと義妹メリゼルから、あからさまな妨害を受けた。
仕立て屋の手配を故意に遅らせられ、届いたドレスは流行遅れの型。装飾品すらメリゼルが先にかすめ取り、ロゼリアの元に回ってきたのは、輝きの鈍い、くすんだ端物ばかり。
あの濁った石を身につけさせられた屈辱を思い出すたび、今でも胸が掻きむしられる。
(わたくしはただ、だれにも邪魔をされず、すべて思いどおりに進めたいだけなのだわ。今世こそは、必ずや……)
密かに闘志を燃やすロゼリアに、マクシムが感嘆の視線を注いでいた。
「相変わらず肝が据わっているな。少しも動揺を見せないなんて。とてもデビュタント前とは思えないよ」
心の深淵を覗かれたのではないかと、一瞬、ぎくりとした。胸がざわつく。
先月の交流晩餐会への潜入を、まさか兄が知っているはずもない。ましてやデビュタントは前世で経験済みであることも。そんなこと頭ではわかっているのだが、一瞬微笑がひきつる。
「あらあら、そういうお兄さまは怯んでしまわれましたの? 国王陛下のお言葉を拝領しておきながら、それを退けるなどあってはならないこと。むしろ王命を背こうとなさっているお兄さまのほうが、肝が据わっているのではなくて?」
内心の動揺をひた隠しにして、なんとか平静を装った。すると、それまで会話に耳を傾けていたカイゼルが、いたずらな笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってきた。
「兄さんもロゼを見習って、腹を括ったら? いっそのこと『王都で婚約者見つけてやるぜ!』くらいの気概見せてよ」
「お前なぁ。普段は呼び捨てのくせに。こういうときだけ兄扱いするな」
年子の兄弟の騒がしい掛け合いを放ったらかして、父はおもむろに引き出しを開けた。
取り出した厚手の羊皮紙を卓上に滑らせ、次いで、机上のインク壺と使い込まれた羽根ペンを手に取る。
ペン先を漆黒のインクに浸し、澱みない動きで羊皮紙へと滑らせていく。その流れるような所作には、一切の迷いがなかった。否、迷う必要もなかった。
王命を受けたなら、その日のうち、遅くとも翌朝には承諾の返書を出すという暗黙の了解がある。返事が遅れれば、反逆の意思ありとみなされてしまう。
慣れた手つきとは裏腹に、父の横顔にはあきらかな緊張感が漂っていた。王命とは本来、これほどの重圧と覚悟をもって受け止めるものである。
(そうですわね。わたくしも一分一秒も無駄にできませんわ)
不意に思い立ったような仕草で、ロゼリアは視線を上げた。
「お父さま。ひとつお願いがございますの」
「なんだ? どうした」
さらさらと紙を走っていたペンがぴたりと止まる。父は不思議そうに娘の顔を見つめた。
「立太子の儀に際して、殿下にお贈りする祝いの品の選定を、わたくしに一任いただきたいのです」
突然の申し出に、父オーギュスタンだけでなく母セラフィナも、一瞬きょとんとした顔になった。それから、娘の真剣な表情を見て、小さく苦笑を浮かべる。
「……張り切っているな。そんなに王太子妃になりたいのか?」
その問いにロゼリアは、思わず頬を強張らせた。マクシムとカイゼルも興味深そうにこちらへ視線を向けている。
「いつだったか……お前がまだ赤子だったころ。マクシムが『ロゼは大人になったら王子さまと結婚して、王女さまになるの?』と聞いたとき、お前は『やっ、やっ』と言っていたのだぞ」
「ありましたね、そんなことも」
「ロゼ、随分と心変わりをしたのだな」
懐かしそうに目を細める父の横で、兄二人も身を乗り出して「まったくだ」と大きく頷いた。
「いいえ。お父さま、お兄さま。王太子妃になりたいのではありません」
きっぱりと、そう言い切る。
「ロゼリアは愛する家族の幸せのため、そしてわたくし自身の幸せのため、王太子妃を目指すことにしたのです」
そうしないと守れないものがある。変えられない運命がある。
そのことをロゼリアは知ったのだ。前世ではなく、この今世において。
ロゼリアの申し出を聞いたオーギュスタンは、しばしの間、愛娘の顔をじっと見つめた。
昔から時折、大人顔負けに周囲を俯瞰してみているようなところがあって気づかなかったが、いつの間にか大人の女性のまなざしをするようになったのか。
我が子の成長を誇らしく思う一方で、同時にこみ上げる父親特有の寂寞に視線を揺らす。
やがて、ふっと慈愛に満ちた笑みを湛えて表情を緩めた。
「……お前がそう言うのなら構わんだろう。品の選定は任せよう」
「ありがとうございます、お父さま」
ロゼリアはカーテシーを美しく捧げ、深々と頭を下げた。
だが、伏せられたその瞳の奥では、すでに次なる算段が音もなく回り始めている。父はそんな娘の凛とした佇まいを、どこか眩しそうに愛おしそうに見つめていたが、満足げに頷き、再び手元の羊皮紙へと視線を戻した。
気づけば窓外の陽は傾き、黄昏の影が忍び寄っていた。
立太子の儀まですでに半年を切っている。王都ローズエマリスへと旅立つその日は、すぐそこまで迫りつつあった。




