第十一話 巡り合う魂[2]
植栽の隙間からドリィがそっと様子を窺う。
屋敷の裏手にある詰所の扉が開き、逞しい体躯の男たちが、次々と外へ出てくるのが見えた。
北方騎士団――アルノー領ノエルヴァルトの防衛を担う、精強な兵たちだ。彼らは伸びをしたり、剣の柄を軽く叩いたりしながら、これから訓練を再開する構えを見せている。
騎士たちが訓練に戻るということは、彼らの休憩の時間が終わったということ。
ロゼリアの休憩時間には料理長マルセルお手製の菓子が振る舞われるのだが、彼女はいつも騎士団の彼らより先に休憩することを嫌がった。
騎士たちの休憩が終わると、ロゼリアのもとに菓子が届けられる。それはロゼリアの姿をしたドリィが部屋に閉じこもるようになってからも、変わらず毎日続いている。
つまり――いつ侍女が部屋の扉をノックしてもおかしくない、ということだ。
騎士たちが訓練場の方角へと遠ざかっていくのを見計らって、ドリィは慌てて身を起こした。
「やばっ! 早く行かないと」
ドリィは焦りの浮かんだ真っ青な顔で植栽の陰から飛び出すと、屋敷に向かって駆けだした。
まだ落ち着かない鼓動を持て余しながら、リュシアンはのろのろと体を起こす。土と葉の匂いが染み付いた外套を、軽く手で払った。
「お、おい! どこへ行く」
慌てて呼び止めるリュシアンに、ドリィは走りながらちらりと振り返る。
「部屋に戻るの。あんたも遅くならないうちに帰りなよ?」
それだけ言い残し、屋敷の四階部分の開け放たれたままの窓の下に辿り着くと、ドリィはぴたりと足を止めた。
なにをするのかと、リュシアンが目を凝らした次の瞬間、伸ばされた指先から、するりと緑色の蔓が伸びた。
「は?」
間の抜けた声が漏れる。
見間違いかと目を擦ろうとしたが、それより早く蔓はしなやかに空中を這い、窓枠にしっかりと絡みついた。ドリィはその蔓をぐっと引き寄せ、身を預ける。
伸びた蔓が今度はどんどん縮んでいく。みるみるうちに少女の体が、滑らかに宙を昇り始めた。
あっという間に、四階の窓辺まで辿り着くと、ドリィは身を翻すようにして、窓の内側へと滑り込んでいった。
パタンと窓が閉じ、カーテンが揺れるのが見えた。
それきり、少女の姿は窓ガラスと、その向こうの薄布の奥へと、すっかり消えてしまった。
リュシアンは、しばらくの間、開いた口が塞がらないままその窓を見上げ続けていた。
「今のは、いったいなんだったのだ?」
素足の令嬢、異様な怪力、そして、人間業とは思えない、あの蔓を使った地上四階への垂直移動。
困惑とどこか拭いきれない好奇心とが、胸の中で複雑に絡み合っている。
もうだいぶ日は傾いて、影が長くなっていた。
一人取り残されたリュシアンは、風になびく外套の裾を握りしめたまま、しばらく、その場から動くことができなかった。
◇
中庭の掃き掃除を終えたメリゼル・フローレンスは、ちり取りに集めた枯れ葉を、庭の隅にある庭師用の木箱へと丁寧に収めた。
額ににじんだ汗を麻の袖でそっと拭う。夕暮れの近づいた風が、火照った頬を心地よく撫でていった。
次は正面玄関だ。
箒とちり取りを手に、メリゼルは屋敷の表側へと足を向けた。
正面玄関は屋敷の顔ともいえる場所。朝きれいにしても、日中のうちに汚れてしまうため、夕暮れにもう一度さっと箒を入れて美しく整えることになっている。
最初に出入りする玄関先を、塵ひとつない状態に保つこの仕事は、彼女にとっても譲れない矜持だった。
母カミーユと共に、アルノー公爵家の屋敷にやってきて早六年。最初は母の手伝いから始まった使用人の勤めも、今では仕事のことも屋敷のことも、すべて把握している。
数年前からは新しく屋敷にやってきた年下の少女たちに、掃除の手順を教える役目まで任されるようになっていた。
(でも……このままずっとここにいるつもりはないわ)
正面玄関へと続く小道を歩いていたメリゼルは、ふと、足を止めた。
(だって旦那さまに雇われているのは母さんだもの。私はただ母さんについてきただけ)
この屋敷にはメリゼルと同い年の令嬢がいた。家族からも愛され、「お嬢さま」と使用人からも兵士からも慕われている。
「もう三年もしたら、お嬢さまは王宮に入られるのね。寂しくなるわ」「気が早いわよ。立太子の儀もまだでしょ? 王太子妃の件も、『候補筆頭』なだけだし」――そんな使用人たちの会話もしょっちゅう聞こえてくる。
(ずるい……私と同い年なのに)
胸の奥に潜む、醜い嫉妬心がぐつぐつと湧きあがってくる感覚に、メリゼルは慌てて首を振った。
「いけないわ。仕事をしなくちゃ」
胸を満たす惨めさを足元に振り落とすと、メリゼルは前だけを見て歩を進める。屋敷の正面に回ろうと角を曲がったその前方に、一人の少年が佇んでいた。
質素な平民風の身なりをしている。
けれど、まっすぐに伸びた背筋と風にさらりと揺れる金髪、そしてその横顔に漂う隠しようのない気品に、メリゼルの視線が縫い付けられる。
(なんだか……王子さまみたい)
鼓動が自然と速くなっていく。まるで物語に出てくる理想の貴公子が、目の前に現れたようだ。
少年の視線は屋敷の四階の一室にじっと注がれていた。
夕闇に沈み始めた窓の先に、まるで、なにかを探し求めるかのように見つめ続けている。
あまりに熱心な眼差しに、メリゼルは少年の視線の先を辿る。
「あのお部屋は、ロゼリアお嬢さまの……」
――ロゼリアお嬢さま。
その名を口にした瞬間、名状しがたい感情が波のように押し寄せる気がした。
輪郭のつかめない胸の翳りを誤魔化すように、ふいとメリゼルは顔を背けた。




