第十話 偽令嬢と招かれざる客[3]
リュシアンがはっと視線を向けると、屋敷の陰から白い柔らかなナイトドレスに身を包んだ少女が姿を現した。
艶やかな薔薇のような深紅の髪が風にさらりとなびく。
(まさか、あれが?)
美しい髪色はさておき、なによりもリュシアンの目を奪ったのは、少女の装いだった。
ナイトドレスの生地は驚くほど薄い。傾いた午後の陽射しにまとう者の輪郭が透けて見えてしまいそうなほどに。
(こ、これは、直視していいものなのか?)
視線のやり場に無性に困る。だが、目を逸らすのも、それはそれでちょっと惜しい気もする。
困惑と慣れない胸の高鳴りとに挟まれながら、リュシアンはしばし、声をかけるべきかどうか逡巡した。
(いや、これは、見過ごせない)
結局、決め手になったのは、育ちの良さゆえの生真面目な使命感めいたものだった。
仮にも公爵令嬢たる者が、こんな無防備な格好で屋敷の外をうろついているとは。
アルノー公爵には娘は一人だけと聞いている。自分より一つ年下の。
年のころから推察するに、この少女が王太子妃候補に名を連ねる、ロゼリア・ド・アルノーなのではないだろうか。
「ま、待て」
かろうじて絞り出した声は、我ながら、みっともなく上擦っていた。恥ずかしさを誤魔化すように、リュシアンは精一杯険しい顔をした。
◇
森でたっぷりと魔力を補ったドリィは、来たときとは打って変わって軽い足取りで、屋敷への道を戻っていた。
体の芯に力がみなぎっている。この調子ならば、ロゼリアが帰ってくるまでの間、あの部屋に閉じこもってやり過ごせるはずだ。
鼻歌でも歌いたい気分で庭を横切りながら、ドリィは屋敷を見上げた。
屋敷も中庭もエントランスホールも、いつもどおりの静けさに包まれている。
どうやら侍女や兄弟たちは、ロゼリアの姿をしたドリィがこっそり抜け出していたことに、まだ気づいていないらしい。
(よかったぁ! あとは、だれにも見つからずに部屋へ戻れれば完璧)
そう安堵の息をついた、そのときだった。
「ま、待て」
「!?」
ふいに声が響いた。若い。それでいて、どこか気位の高さを感じさせる声。
ドリィはびくりと肩を震わせ、その場に縫い付けられたように立ち止まった。
(やばい、見つかった!)
心臓が跳ね上がる。慌ててあたりを見回す。
だが、そこには手入れの行き届いた庭木と、静まり返った屋敷があるだけで、人影らしきものはどこにも見当たらない。
「……えっ?」
困惑したまま、ドリィがさらに周囲へ視線を巡らせようとした、まさにそのとき。
「ここだ」
声のした方向へ勢いよく振り返る。すると、だれもいなかったはずの空間に、突如としてふわりと輪郭を結ぶようにして、平民風の身なりをした金髪の少年が現れた。
ドリィは目を丸くした。
屋敷の正面には高い塀がそびえ、裏手は深い森と切り立った崖に阻まれている。どちらから来たにせよ、迷い込んだにしてはあまりに不自然すぎる。
昼下がりの風が金の髪をさらりと揺らす。
青い瞳が品定めするように、じっとドリィを見据えていた。心なしかほんのりと頬が赤い気がする。
「貴様がロゼリア・ド・アルノーか?」
問いかける声には、隠しきれない緊張と、それを上回るだけの尊大さがにじんでいる。
ドリィはしばらくの間、ぽかんと少年を見つめ返していた。
だれだ、こいつ。怪しいやつ。それにこの偉そうな物言い。
やがて、ドリィの顔にあからさまな嫌悪の色が浮かんだ。
「はあ? だれだよあんた。馴れ馴れしいな」
◇
一方、ロゼリアは相変わらず、揺れ続ける馬車の中にいた。
窓の外を流れていく景色は、リュミエールを発ってからというもの、どこまでも続く緩やかな丘陵地帯が広がっていた。
馬蹄が石畳を叩く甲高い音が懐かしく思えてくる。馬車の車輪が踏みしめる土の柔らかな感触に、時折ガタン、ガタン、と石を踏む衝撃が加わり、座席の上で体が小さく跳ねる。
あと何日、この振動に付き合わないといけないのだろうか。それでも、行きの旅路で散々な思いをした分、帰りは幾分か旅の要領も掴めてきた。
(まだ、全行程の二割程度でしょうね)
窓に映る自分の疲れた顔を見つめながら、ロゼリアは心の中でそうつぶやいた。
長い道のりだ。だが、焦っても仕方がない。
むしろ、馬車に揺られているこの時間こそ、次の一手をじっくりと練るには、ちょうどいい機会だった。
膝の上で指を組み合わせる。脳裏に浮かぶのはあの晩餐会での屈辱――ではなく、その先にある未来だった。
(このまま何事もなければ、王太子妃に選ばれるのは、ほぼ決まったようなもの)
苦い記憶を振り払うように、ロゼリアは意識を目の前の課題へと切り替えた。
王太子妃候補筆頭という立場は、もはや揺るぎない。ならば、あとはその先を見据えて動くのみだ。
リュシアンとどう親密になり、どうやって彼の信頼を得て、王国の魔導技術を国防へと転用し、そのための国家予算を捻出するところまで、こぎつけられるか。
七年後に訪れるという、祖国滅亡という絶望的な未来。
それまでに、できることはすべてやり尽くす。そのためであれば、あんなに拒絶していた王太子妃という立場さえも利用する。
ロゼリアの決意は、もう揺らいではいなかった。
「そうですわね。……まずは、やはり、お手紙と贈り物かしら」
車内はほかにだれもいなかったが、思考を整理するように、ロゼリアはあえて小さく声に出してつぶやいた。
といっても、未婚女性から男性への手紙や贈り物は、貞淑さに欠けた私的な求愛とみなされ、発覚した時点で王太子妃候補から真っ先に外されてしまいかねない。
当然、前世のロゼリアは贈ろうという発想にすらならなかった。
けれど、今世ではリュシアンに国防費捻出のおねだりをしなくてはならない。こういった先行投資は大切だ。
「狙いは一年後の立太子の儀。公式な行事の贈り物と添え状という体でしたためるのがよいですわね」
あくまで事務的な時候の挨拶にとどめ、父オーギュスタンの許可も得たうえでなら、まったく問題はないはずだ。
「殿下の好みは熟知しておりますもの」
前世の記憶を辿れば、リュシアンの趣味嗜好などすでに把握済みだ。
なにを好み、なにが嫌いで、どんな言葉に心を動かされるか。かつて、リュシアンに裏切られ、切り捨てられた身としては、皮肉としか言いようがない。
だが、だからこそ、使えるものはなんでも使う。今のロゼリアには、そう腹を括るだけのしたたかさが備わっていた。
くすりと口の端に笑みが浮かぶ。
馬車の揺れに身を任せながら、ロゼリアは脳裏に贈るべき品と綴るべき言葉の候補を、ひとつ、またひとつと思い描き始めた。
❖ つづく ❖
© 2026 有明 莉琉/Riru Aria
【無断転載・翻訳禁止】All Rights Reserved. Reproduction and translation are prohibited.




