第十話 偽令嬢と招かれざる客[2]
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時を同じくして。
ノエルヴァルトの駅舎を出た少年の足取りは、初めて訪れる土地とは到底思えないほど迷いがなかった。
石畳とも呼べぬ、踏み固められただけの土の道。
行き交うのは、洗練された王都の馬車ではなく、荷を山ほど積んだ質素な荷馬車ばかりだ。
それでも少年は、目的地を熟知しているかのように、まっすぐ前を見据えて歩いていく。
もっとも、迷いのない足取りとは裏腹に、彼の姿はこの辺境の街から明らかに浮いていた。
羽織った地味な外套は、肩の落ち方からして、明らかに借り物だ。
金の髪こそ、目立たぬよう帽子の下に押し込んでいるが、青い瞳の輝きや、育ちの良さのにじみ出た所作までは、そう簡単に隠しきれるものではなかった。
少年はその名をリュシアンと言った。
リュシアン・ド・オルヴェリア。
そう。彼はこのオルヴェリア王国の第一王子である。
来年、十五歳となり成人を迎えるとともに、立太子の儀において正式に王太子として、内外に宣明される予定だ。
道端に並ぶ露店の一つ、花屋の前を通りかかったところで、店主の男がふいに声をかけてきた。
「おう、坊主。見ない顔だな」
坊主、という呼びかけに、一瞬かちんとくる。だが、今の自分はどこからどう見ても坊主にしか見えない格好をしているのだから仕方がない。
リュシアンは苛立ちを飲み込みながら、店先に目をやった。
並んでいるのは、シクラメン、アスター、それにダリア。鮮やかな色とりどりの花が、素朴な木箱の中にところ狭しと詰め込まれている。
自然と視線が、そこには見当たらない一輪の花を探していた。
「……薔薇はないのか」
気づけば口をついて出ていた。
店主は、髭の奥の口元を一瞬だけニヤリと歪めた。それから、堪えきれないとばかりに、大声を上げて笑い出す。
「はははっ! 本気かい? ここは北の辺境だぜ。秋口に薔薇を探しているなんて、さては坊主、王都から来ただろ。こりゃ『お坊ちゃん』って呼ばなきゃいけなかったか」
図星を突かれ、リュシアンはぐっと言葉に詰まった。店主はそんな反応を面白がるように、さらに続ける。
「想い人に会いにはるばるノエルヴァルトまで来たってか? 残念だが薔薇は王都から持ってこないと。もっとも王都の温室で育ったような、ひ弱で、香りの薄い、ただ赤いだけの薔薇じゃ、色恋の相棒にゃ心許ないだろうがな」
「だれが色恋だ! そんなものでは断じてないっ」
思わず声を荒げてしまってから、リュシアンはしまったという顔になった。周囲の視線が、一瞬こちらに向く。
無礼な店主だ。
お望みとあらば、今すぐにでも営業停止を言い渡してやる――そう思い至ったところで、はっと我に返る。
お忍びで来ている以上、そんな真似ができるはずもなかった。
気分を害したリュシアンは、それ以上、店主に取り合うことなく、再び目的地に向かって大股に歩き始めた。
「別にはるばる来たわけではない。第一、想い人でもないし」
だれに言い訳するでもなく、ぼそぼそと独り言がこぼれる。頬に微かな熱を感じるのは、徐々に傾き始めた日差しのせいに違いなかった。
そうこうするうちに、彼は一軒の大きな屋敷の前へと辿り着いた。高い塀に囲まれた、堂々とした佇まい。王宮の絢爛さには遠く及ばないものの、この辺鄙辺土地には不釣り合いなほどの威容を放っている。
だが、華やかさよりも堅牢さを重んじた砦のような屋敷は、いかにも武門の家柄らしい。
「王宮には劣るがまあまあだな。さすが田舎。土地だけはある」
小さく鼻を鳴らしながら、リュシアンはそびえ立つ塀を見上げた。そして、屋敷に向かってゆっくり一歩を踏み出した。
塀に近づくにつれ、リュシアンは羽織った外套の襟元にそっと手をかけた。
これはただの外套ではない。
王宮の宝物庫からこっそりと拝借してきた秘宝、幻影の外套だ。
フードを深く被り、そっと魔力を通すと、たちまち体の輪郭が淡くにじみ、揺らぎ始めた。
「……よし」
満足げに小さく頷く。フードを目深に被ったまま、リュシアンはさらに屋敷へと近づいていく。
先ほどまで淡く半透明だった体は、もうほとんど透明になっていた。
単に透明になるだけではない。これのすごいところは、どんな分厚く高い壁であっても、乗り越えるでも、崩すでもなく、羽織っただけで難なく通り抜けられてしまうところだ。
残念なのは影までは透明にできないこと。それと、物理的な壁は通過できるが、魔法障壁や結界の類には効果を発揮しないこと。
リュシアンは透けた掌を、そっと塀にかざしてみせる。指先が灰色の石塀に触れた瞬間、抵抗もなく、するりと沈み込んでいった。
「魔法障壁や結界は施されていないな」
確認すると、リュシアンは息を止め、そのまま体ごと塀の向こうへと踏み出す。
ひやりとした感触が全身を包んだかと思えば、次の瞬間には、塀のあちら側――屋敷の敷地内にリュシアンは音もなく立っていた。
手入れの行き届いた庭は、思いのほか静かだった。
左右対称に整えられた芝生、等間隔に植えられた庭木、中央には噴水と王国の象徴である獅子の石像。そして、その奥にそびえる、堂々とした屋敷の輪郭。
外から屋敷内を窺いながら、リュシアンはふと、良心の疼きのようなものを覚えた。
いくら透明になっているとはいえ、正式な手順を踏まず、屋敷の主の許可も得ないまま、敷地内にまで足を踏み入れているのだ。見えないことをいいことに、さらに屋敷内部にまで侵入したとなれば、無礼千万。
「今日は一目だけだ。たとえ見られなくとも長居はしない」
そう自分に言い聞かせる。
あの気難しいマルグリットでさえ、王太子妃にふさわしいと太鼓判を押す公爵令嬢。
紅薔薇のごとく気高く美しいというその令嬢を、ただ一度、この目で確かめに来ただけなのだ。それさえ済ませれば、すぐにでも立ち去るつもりだった。
リュシアンは庭木の陰に身を潜めるようにしながら、屋敷の裏手へと慎重に回り込んでいく。薄明かりの漏れる部屋、二階の廊下を行き交う侍女らしき人影。
その中に目当ての令嬢がいないか慎重に確認していく。
そのとき、屋敷の裏手の茂みが、かすかに揺れた。




