第十話 偽令嬢と招かれざる客[1]
天蓋付きの寝台の上で、ドリィはもう何度目かもわからないため息をついた。
ロゼリアがこの屋敷を発ってから、今日で八日。
最初のうちは、退屈を持て余しながらも、案外なんとかなるものだと高を括っていた。だが、その余裕ももはや底を尽きかけている。
なんとか半日をやり過ごしたが、
「うぅ……なんか、体が重い……」
だれに言うでもなく、掠れた声がこぼれる。
ドリィは寝台の上で力なく仰向けに転がった。
人型を保つため魔力が、じわじわと尽きていく感覚。それは空腹とも疲労とも違う。もっと根源的な渇きだった。
姿かたちの縛りがないのであれば問題ないのだが、今のドリィにとって、この屋敷内はあまりにも魔素が薄すぎる。
窓の外に目をやれば、木々たちが見える。
この屋敷の裏手には鬱蒼と茂った故郷の森がある。あそこに行けばきっと楽になる。
頭ではそうわかっていた。わかっていて、今日までずっと我慢を重ねてきたのだ。
扉の外から控えめなノックが響く。
「お嬢さま、お加減はいかがでしょうか」
カトリーナの声だった。今日もあの待機当番とやらが、扉のすぐ外に控えているらしい。
ドリィは天井を見つめたまま、なんとか声を絞り出す。すでにロゼリアの口調に寄せることすら忘れていた。
「……大丈夫、だよ。ちょっと、休んでいたいから」
「畏まりました。なにかございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
足音が扉の向こうで、そっと遠ざかっていく。とはいえ、完全にいなくなったわけではない。
ドリィはのろのろと体を起こし、部屋の中を見回した。
天蓋付きの寝台、重厚な机、精巧に彫刻の施された姿見。それらを素通りして、ドリィの視線が捉えたものはカーテンの薄布の向こうにある窓だった。
「抜け出しちゃおっかな……」
待機当番のいる扉からの脱出は絶望的だった。となると自動的に経路は絞られる。
「……窓しか、ないよね」
ドリィはふらつく足取りで、窓辺へと歩み寄った。
アルノー邸のロゼリアの部屋は、屋敷の四階にある。カーテンをそっとめくり、下を覗き込むと、庭の青々とした芝生が見えた。
普通の人間ならば、ここから飛び降りることなど思いつくわけもない。
だが、今は人のかたちをとっているだけのドリィにとっては、この程度の高さなど、痛くも痒くもない。一切の迷いなく窓に手をかける。
もし、今ここで自分が忽然と姿を消したら、兄弟たちや侍女たちが、どれほど大騒ぎするだろうか。屋敷中を巻き込んだ捜索が始まるかもしれない。
兄弟たちの慌てふためく様子、カトリーナの蒼白になった顔――しかし、魔素が枯渇しかけているドリィには、そこまで頭を巡らせる余裕など、もはや残されていなかった。
ドリィは震える指先で窓の掛け金を外した。ぎい、と軋んだ音を立てて、窓がゆっくりと開く。
屋敷内よりもひやりとした昼下がりの風が頬を撫でた。
木々の匂いが、かすかに鼻先をくすぐる。それだけで、渇いていた喉に一滴の水が落ちたような気がした。
窓枠に手をかけ、素足のままその縁に立つと、眼下に広がる庭の芝生がより一層遠くなった。
「よしっ」
短く息を吸い込むと、ドリィはなんのためらいもなく、四階の窓から身を躍らせた。
◇
四階の窓から遥か下の地面へ。
風を切る感覚は、ほんの一瞬だった。
裸足の足裏が柔らかな芝生を踏みしめた瞬間、ドリィはぶるりと大きく身震いした。飛び降りた衝撃らしい衝撃は、どこにもない。それどころか、地面に立ったその一歩から、すでになにかが違っていた。
「ああー……」
思わず声が漏れる。屋敷の中では感じられなかった、濃密な土と草の匂い。そして、遥か奥から漂ってくる、木々の呼吸と故郷の森の魔素の香り。
それらが渇ききった体に、堰を切ったように流れ込んでくる。
胸いっぱいに息を吸い込むと、指先の震えが少しずつ収まっていくのがわかった。
頭の芯にかかっていた靄も、すうっと晴れていく。屋敷の中ではあれほど重く感じていた体が、今は嘘のように軽い。
「ふふ……ははっ、やっぱり外の空気は最高だなあ」
無邪気な笑い声が、広い庭に小さく響いた。
深呼吸を繰り返すうちに、徐々に冷静になってきた。時間差でやってきた罪悪感に、ドリィは屋敷を振り仰いだ。
四階のあの窓は、開け放たれたまま。カーテンが風にはためいている。
あの部屋の中に、今、だれもいないと知られたら。
想像するだけで、胸の奥がちくりと痛んだ。特に、あの専属侍女の顔が真っ先に浮かぶ。
「……ごめんね、カトリーナさん。息抜きしたらすぐに戻ってくるから。それまでは、どうか、声をかけないでね」
祈るような気持ちでつぶやく。
もちろん、この声が届くはずもないとわかっていた。それでも、口にせずにはいられなかった。
窓を見上げていたのも、ほんの数秒だった。
ドリィは意を決したように、屋敷の裏手に広がる深い森へと向き直った。
「さあ、行くよー!」
その一声とともに、ドリィは地面を蹴った。
芝生が素足をくすぐる。それから庭の外れの下草を踏み分けながら、森を目指して一直線に駆け出す。
走るたびに、風が赤い髪を後ろへとなびかせた。
森の入り口をくぐった瞬間、ドリィを包んだのは、屋敷の比ではない圧倒的な魔素の奔流だった。
全身の細胞という細胞が、一斉に喜びの声を上げているかのように隅々まで行き渡るような爽快感。
木漏れ日が緑の匂いとともに肌を撫でていく。小鳥のさえずり、葉擦れの音、遠くで聞こえる川のせせらぎ――そのすべてが、渇ききった体に染み渡っていく。
「んー、ただいま。みんな」
ドリィは太い木の根元にぺたりと座り込んだ。
大きく深呼吸を繰り返す。そのたびに、体の奥底から力が満ちていく。
梢がさわさわと風に揺られて心地よい音を鳴らす。
「あぁ……生き返るぅ……」
まるで時間の経過が、屋敷と森の中とでは違っているみたい。
穏やかな午後のひとときにドリィもつられてゆっくりと目を閉じた。




