[3]
――え、待って。まさか王太子妃になるの? あんなに嫌がってたのに?
――ええ、その通りよ。もちろん今だって虫唾が走るほど嫌ですわ。けれど、目的のために手段は選んでいられませんの。
きっぱりと言い切ると、ロゼリアは脳裏に具体的な構想を描き始めた。
前世でもオルヴェリアは、魔導技術では他国を圧倒していた。けれど、長く停戦状態に入ってからは、もっぱらその技術は人々の暮らしを豊かにする目的で利用されるばかり。
戦場でそれを扱うのは最前線で防衛を担う、アルノー領ノエルヴァルトの北方騎士団くらいだった。
――アルノー家が擁するような精強な軍を、王国各地に配備するの。訓練を重ね、いざというときに備える。もし、わたくしが王太子妃という立場を得られれば、それを実現するための発言力も、手に入るはずだわ。
七年後。
ドリィから聞かされたあの絶望的な未来まで、まだ猶予はある。ならば、それまでに、できる限りのことをやり尽くすまでだ。
前世で見聞きしたもの、必死に努力して積み上げてきたものを、自身を死に追いやった王国のために使うのは少々癪だが、黒牙の狂獣との取引が不成立となった今、致し方ない。
自身を守り、家族を救って、そして今度は、国そのものを強く鍛え上げる。
――……ロジーって本当に、変わり身が早いよねぇ。
――このくらいでないと、運命を変えるなんてできませんのよ。
くすりと笑いながら、ロゼリアは窓の外に視線を戻した。
見知らぬ異国の夜景が、無数の灯りを瞬かせながら、静かに広がっている。
澄み渡った夜空を見上げれば、見慣れぬ並びの星々が無数に散らばっている。故郷ノエルヴァルトでいつも目にしていた星とは、瞬きの強さも色も、どこか違って見えた。
眼下に広がるのは、故郷とはまるで違う、賑やかで洗練された夜の街並みだった。
玉ねぎのように丸く膨らんだ屋根や、幾重にも連なる細身の尖塔が、月明かりを受けて複雑な陰影を描き出している。
エキゾチックな花木の香りに混じって、昼間バザールがあった方角からは、香辛料の匂いが夜風に乗ってかすかに漂ってくる。
(明日の朝には、ここを発つわ)
取引は失敗に終わったが、これですべてが終わったわけではない。
「そうよ。むしろここからが、新たな始まりよ」
長い旅の始まりの地を目に焼き付けるように、ロゼリアはしばらくの間、その夜景を見つめ続けた。
悔しさから始まった今宵の作戦会議は、新たな目標を定めるという確かな足跡を残し、一区切りを迎える。
それから眠りに落ちるまで、ロゼリアとドリィは、互いの苦労話をどちらともなく吐き出し始めた。
異国の夜は静かに更けていった。
◇
翌朝。中立都市連合リュミエールより遥か北、アルノー邸のロゼリアの自室では。
「はぁー……暇ぁ」
天蓋付きの寝台に行儀悪く仰向けに寝転がった少女――否、少女の姿をしたドリィが大きなため息をついた。
艶やかな赤髪を扇のように広げ、天井を見上げる。
この体に成り代わってから、もう何日になるだろうか。
最初は公爵令嬢の代わりなど到底務まるはずがないと、あれほど渋っていたというのに。「体調が優れないので、部屋で静かに休みたい」の一言を盾に、自室に引きこもり続ければ、案外、なんとかなるものだった。
扉の向こうからは今日も、心配そうな声が響いてくる。
「姉さま、お顔が見たいです……」
「まだロゼの体調が戻らないなんて……! こんなこと、初めてだぞ」
レオネルの哀切に満ちた声を、次兄カイゼルの案じるような沈んだ声が追いかける。
「新手の流行り病かなにかか? かわいい妹が苦しむくらいなら俺が代わってやりたい」
長兄マクシムのいくらか大げさな声も、それに続く。
その声を聞きながら、ドリィは寝台の上でごろりと寝返りを打った。
「大丈夫だよぉー、心配しすぎだってば……とは、言えないんだけどね」
だれに言うでもなく、小さくつぶやく。
兄弟たちの心配そうな声を聞くのは胸が痛んだ。だが、扉を開けて姿を見せるわけにはいかない。ドリィにとってこの閉じこもり作戦は、まさに窮余の一策だった。
もっとも、本当に厄介なのは、兄弟たちではなかった。




