[2]
大通りを外れ、宿へと続く裏通りに入るころには、辺りに人影もまばらになっていた。
石畳を鳴らす自身の足音だけが、やけに大きく響く。
灯りの落ちた窓、固く閉じられた店先の木戸。昼間は色鮮やかに翻っていた軒先の日除けの布も、今はひっそりと下ろされている。
異国情緒に満ちていた昼間の喧騒が嘘のように、夜のアジール=クレールは、静けさに包まれていた。
ロゼリアはその静寂の中で、こみ上げてくる衝動と必死に闘っていた。
(叫んでしまいたい……)
喉の奥から悲鳴にも似た熱の塊が、幾度となくせり上がってくる。
思えばこの一年、いや、ドリィから聞いたあの日から数えれば九年。ずっと心血を注いできた、たったひとつの好機だった。
それを、あんなにもあっさりと切り捨てられてしまったのだ。
悔しさと無力感と行き場のない怒りがないまぜになって、胸の中で暴れ回っている。
けれど、ここで声を上げるわけにはいかない。
人気のない道とはいえ、公共の場で感情を露わにするなど、公爵令嬢の矜持が許さない。
ロゼリアは両手をドレスの上からそっと胸に押し当て、込み上げる衝動を喉の奥へと辛うじて押し留めた。
胸の上下をできる限り小さく抑えながら、ゆっくりと深く呼吸を繰り返す。
肺いっぱいに息を吸い込もうとすると、ドレスの下のコルセットが、容赦なく肋骨に食い込んでくる。
苦しい。それでも、その苦しさこそが今の自分にはちょうどよいくらいに思えた。
規則正しく呼吸を繰り返す。
ひとつ、ふたつ、みっつ――そうしているうちに、荒れ狂っていた感情の波が、少しずつ凪いでいくのがわかった。
(こんなところで立ち止まっている場合ではないわ)
冷静さを取り戻し始めた頭の中で、ロゼリアはそう結論づけた。
拒絶されたという事実は、もはや覆しようがない。ならば、次になにをすべきか。
それを考えることのほうがよほど建設的だ。
宿への道を歩きながら、ロゼリアは遠く北の空の下にいるソウルメイトへと、意識を集中させた。
(宿に戻ったら作戦会議ですわよ、ドリィ)
胸の内でそう思念を送る。
ドリィから返事はなかったが、今はそれでよかった。
すでにロゼリアも、次の一手のことで頭がいっぱいだった。
夜のアジール=クレールの街並みを、足早に歩き続けた。悔しさを噛み殺しながらも、その瞳の奥にはまだ光が灯り続けていた。
今宵、突きつけられた拒絶の言葉を、ロゼリアは決して忘れることはないだろう。
けれど、それをどう次に活かすか――その答えを見つけ出すことこそが、今の自分にできる唯一の反撃と信じていた。
◇
宿に戻ると、ロゼリアはまず、着替えを済ませることにした。
一人でドレスを脱ぐのは、さすがに骨が折れる。帳場に声をかけると、あの人の好い女主人が快く手を貸してくれた。
「まあまあ、随分お疲れのようだこと」
「ええ、……いろいろとありましたの」
曖昧に答えながら、コルセットの紐が緩められていく感覚に、ロゼリアは詰めていた息をようやく吐き出した。
締め付けから解放された体は、どっと疲労を訴えてくる。
女主人に礼を告げ、部屋に一人になると、柔らかなナイトドレスに袖を通した。
寝台の端に腰掛け、窓の外に広がる見知らぬ夜景を、しばらくの間ぼんやりと眺める。
それから、ゆっくりと目を閉じ、遠くのソウルメイトへと意識を集中させた。
――ドリィ、聞こえる?
しばらくの沈黙のあと、微かな応答が返ってくる。
――聞こえてるよ、ロジー。うまくいかなかったみたいだね。
――ええ。見事に突っぱねられましたわ。
自嘲めいた笑みが口の端に浮かぶ。その声には先ほどまでのような、行き場のない悔しさはもうにじんでいなかった。
――……の、割にはずいぶんすっきりした声だね。もしかして、もう次の手、考えてるの? 相変わらず切り替えが早いね、ロジーは。
ドリィの声には、呆れと感心が半々に混じっていた。その言葉に、ロゼリアも小さく笑みを返す。
――わたくし、考えを改めることにしましたの。
確信に満ちた声で、さらに言葉を続ける。
――あんなにきれいな顔をしていらしても、あの方も所詮は「|戦を好む時代遅れの蛮族」。しかも、黒牙の狂獣の異名をとる男。オルヴェリアを滅ぼすことは「決定事項」とまで言われたわ。はなから刺さる提案ではなかったのよ。
――へぇ。ロジーってああいうのが好きなんだ。
――茶化さないで。真面目に話しているのよ?
頬のあたりがわずかに熱い。思念のみの伝達で顔を見られずにすんだ幸運に、ひそかに息をついた。
――それで、これからどうするの?
――「滅ぼされるくらいなら、こちらから差し出してしまおう」という考え方が、そもそも間違っていたのよ。「オルヴェリアを帝国に負けない強国に育てる」。これを新たな目標にいたしますわ!
いざ言葉にしてみると、その決意は不思議なほど、すとんと胸に収まった。
取引が決裂したことへの落胆は、まだ完全には消えていない。だが、絶望に留まり続けるよりもはるかに前向きな道筋が、ロゼリアには見えていた。
――それって、途方もない話じゃない? 国を強くするなんて。
――もちろん簡単ではないでしょうね。……ですが、幸か不幸か、今のわたくしは王太子妃の座に最も近いところにいますの。
その言葉にドリィが、驚きに息を呑む気配が伝わってきた。




