第九話 折れぬ紅薔薇[1]
記念すべき停戦百年の交流晩餐会は、これといった混乱もなく、静かに幕を下ろそうとしていた。
「本日はご来場いただき、誠にありがとうございました」
枢機卿の締めの言葉とともに、招待客たちが、三々五々、広間の出口へと足を向け始める。
長引かせれば、それだけ余計な諍いの種にもなりかねない。だからこそ、予定どおり一時間半という短さで、あっさりと散会になったのだろう。
ロゼリアもその人の流れに、そっと紛れ込んだ。
招待状を持たない身としては、むしろ、この退出の瞬間こそが最も好都合だった。大勢の招待客に混じっていれば、いちいち身元を確かめられる心配もない。
警備の視線も、この群衆の中では、さすがに一人一人までは行き届かないはずだ。
計画どおり、ロゼリアは一切の咎めも受けることなく、大宮殿の正門を抜けた。
夜風が火照った頬を涼やかに撫でていく。しかし、胸の内に渦巻く感情だけは、いっこうに収まる気配はなかった。
(あり得ませんわ。どうして……)
石畳の道を歩きながら、ロゼリアは先ほどのバルコニーでの、計画どおりにならなかったやり取りについて、繰り返し反芻していた。
◇
「ええと……少々お待ちになって。もしかして、わたくしの声が聞き取りづらかったでしょうか?」
「いや。はっきりと聞こえた。広間にいるオルヴェリアの招待客の耳に入るのではと、こちらが狼狽するほどにな」
「……なぜ、と、お聞きしても?」
震えそうになる声を必死に抑えながら、ロゼリアはそう問いかけていた。
この瞬間、自分がどんな顔をしていたのか、今となってはもう思い出せない。ただ、ドレスの裾を握りしめた指先が小刻みに震えていたことだけは、はっきりと覚えている。
「なぜ、だと? 簡単なことだ」
抑揚のない低い声が、耳の奥にまだ生々しく残っている。気だるげに細められた翡翠の瞳が、冷たくロゼリアを見下ろしていた。
「祖国を『差し上げる』などという、正気の沙汰ではない提案に乗ってやるほど、俺は暇ではない」
頬がかっと熱くなる。
あれほど周到に準備を重ね、命がけで潜入までして、やっと辿り着いた対話の機会だった。それをこうもあっさりと切り捨てられるとは。
「正気の沙汰でないことは、重々承知しておりますわ。それでも、これは両国の未来を左右する真剣な提案でしてよ?」
食い下がる声が、動揺で情けなく上擦っている。
けれど、ここで退くわけにはいかなかった。
「真剣な提案? その予言とやらがか? そんなものは予言でもなんでもない。俺がオルヴェリアを滅ぼすことは、疾うに決定事項だ」
――決定事項。
その一言にロゼリアはなにも言い返すことができなかった。
軽い調子で放たれた、あまりにも重い言葉。
まるで、覆しようのない未来として、すでに彼の中では、揺るぎなく定まっているかのような口ぶり。
ロゼリアは震える唇を引き結ぶので精一杯だった。アルドリックはその様子をしばらくの間、無言で見つめていた。
「だが、まあ……」
侮蔑でも、憐憫でもない。名状しがたい表情がその整った顔に、ほんの一瞬、よぎったようにも見えた。
「あの広間にいるよりは、退屈しなかったぞ。オルヴェリアの公爵令嬢」
最後に踵を返しながら投げかけられたあの一言。
感情の読めない顔に、ほんのかすかに、勝ち誇ったような、面白がるような笑みが浮かんだ。
◇
そういえば彼はまるで計ったようなタイミングでバルコニーに移動した。
ただの偶然だったのかもしれない。
けれど今となっては、それすらもロゼリアを嘲笑うための余興だったように思えてならなかった。
(悔しい。ただの暇つぶしにされた気分だわ!)
悔しい。なにが悔しいって、家族を欺き、ドリィを巻き込んで、時間と資金を費やし、運よく黒牙の狂獣との対峙にありつけたというのに、まったくもって響かなかったことに他ならない。
(ああ、なぜ……わたくしはせっかくの機会を不意にしてしまったの!)
入念に練り上げた計画も、彼にとっては路傍の石ころほどの価値もなかったのだろう。




