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◇
大きく開け放たれた扉の向こうに広がっていたのは、中庭に面した石造りのバルコニーだった。
優雅な音楽と人々の談笑の声が、扉一枚を隔てただけで驚くほど遠く感じられる。
代わりに満ちていたのは、夜風に乗って漂う異国の花々の匂いだった。
見たこともない白い大輪の花が、中庭の庭園に月明かりを受けて、幻想的に浮かび上がっている。どこか重厚感のある、甘く、フローラルな香りが、夜気に静かに溶け込んでいた。
(今しかないわ!)
石の手すりに肘をつき庭園を見下ろしていた彼が、扉の開く音にかすかに反応した。
「お、……畏れ多くも」
ロゼリアは震えそうになる息を整えた。
ドレスの裾を軽くつまみ、背筋を伸ばす。
このために淑女教育を積み重ねてきたわけではないけれど。前世と今世、二つの人生をかけて磨いてきた所作を、今、この一瞬にすべて注ぎ込むつもりで。
月光を浴びて佇む、その広い背中に向けて、ロゼリアははっきりと声をかけた。
「ヴァルクライス帝国の第一皇子、アルドリック・フォン・ヴァルクライス殿下とお見受けいたします」
振り返った翡翠色の瞳が、真っ直ぐにロゼリアを射抜いた。
月明かりが逆光となって、彼の輪郭をいっそう際立たせている。ロゼリアは怯むことなく、前世から数えて何度目かの深く、美しいカーテシーを捧げた。
「……お声をかける不敬をお許しください。わたくしはオルヴェリア王国アルノー公爵が娘、ロゼリア・ド・アルノーにございます」
その声には自分でも気づかぬうちに、期待と不安が色濃くにじんでいた。
長い旅路の果てにようやく辿り着いた。心臓が痛いほどに脈打っている。
沈黙が数拍分流れた。
夜風が二人の間を静かに通り抜けていく。
「いかにも。俺がヴァルクライス帝国の第一皇子だ」
感情を排した、見た目通りの、突き放すような冷たさを孕んだ声だった。
「が、あいにく、オルヴェリアの公爵令嬢と話すことなどない」
短く言い捨てると、彼はあっさりと背を向けた。談笑の続く広間へと戻るつもりだろうか。
――ま、待って!
胸の奥で悲鳴にも似た声が上がる。
ここに辿り着くまで、どれほどの時間とどれほどの覚悟を費やしただろうか。このまま指をくわえて見送るなどあり得なかった。
「お待ちください!」
気づけば、声が勝手に飛び出していた。
振り返りかけたその背中に向けて、ロゼリアは夢中になって続けた。
「わたくしは……未来を予言することができます!」
その言葉に、彼の足がぴたりと止まる。
(すべてを予言できるわけではないわ。そもそも予言でもありませんし)
内心で、冷静な自分がそっと囁く。
ロゼリアがわかるのはあくまでも、前世の自身の記憶とドリィから聞いた死後の断片的な出来事の欠片だけだ。
それに、今世は十三年の歳月の中でずいぶんと運命を変えてしまっている。前世とは異なる形で事態が進み、予言が外れてしまう可能性だってある。
もし、運よく彼に取り入ることができたとしても、予言ができると大口を叩いて、盛大に外してしまえば、前世の処刑よりも無残にこの男に殺されてしまうかもしれない。
それでも、この機を逃すわけにはいかなかった。
「七年後、オルヴェリア王国はヴァルクライス帝国に滅ぼされます」
夜風がふっと止んだような気がした。
「そして、その軍を率いていたのが――殿下。あなたですわ。黒牙の狂獣」
その一言に、アルドリックの眉がかすかにぴくりと動いた。
(興味を、示した?)
ロゼリアは前のめりになりそうになるのを、必死に押しとどめた。
ここで焦ってはすべてが台無しになる。努めて冷静な声音を保ちながら、さらに続けた。
「オルヴェリアを無傷のまま、あなたに差し上げるわ。わたくしの予言があれば、一滴の血も流さず、労せずして攻略できます」
月明かりの下、翡翠色の瞳がわずかに見開いて、ロゼリアをじっと見据えている。
その視線に冷たさとは別の、鋭い光が宿るのを、ロゼリアは感じた。
一瞬の静寂。花の香りだけが二人の間に淡く漂う。
そして。
「断る」
あまりにもあっさりとした一言が、夜のバルコニーに無情に落とされた。
❖ つづく ❖
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