[2]
冷たい石の階段をいくつも降りた先――未決囚用の牢は、太陽の光も熱も届かない地下にあった。
隅にある粗末な寝台はいかにも不衛生で腰を下ろすのは憚られ、ロゼリアは立ったまま手枷をされた両手をただ見下ろしていた。
――ドリィ。聞こえる?
心の中で呼びかける。
故郷の森で出会って以来、どんなに離れていても繋がっていたはずの、木の精霊への思念。
だが、返事はなかった。
手枷に魔力を封じられたせいなのか、それともこの場所の空気中の魔素そのものが乏しいせいなのか。理由はわからない。
ただ、いつも当たり前に感じていたドリィの気配が、今はどこにも見つからなかった。
「お嬢さま! ご無事ですか!?」
牢の外から響いたのは聞き慣れた声だった。専属侍女のカトリーナが、衛兵の制止も聞かず、鉄格子に取り縋る。
「カトリーナ……」
「なぜ、お嬢さまがこんなことに。どうして、どうして……!」
涙ながらに訴えるカトリーナの声に、ロゼリアは微笑んだ。
「大丈夫よ。きっとなにかの間違いだから」
そう口にしながらも、胸の奥に小さな不安が広がっていく。
ドリィの声が聞こえない。まるで世界からたったひとり切り離されてしまったような、心許なさがあった。
薄暗い早朝のこと。慌ただしい足音とともに、牢の入り口に人影が現れた。
「ロゼリア!」
遠方のアルノー領から慌てて駆けつけたのだろう。ロゼリアの父オーギュスタンは息を切らしながら、鉄格子越しに娘の姿を確かめる。
「お父さま……」
「私の娘を罪人扱いするなど、断じて許せん。必ず潔白を証明してみせる」
その言葉に込められた強い意志だけが、冷たい牢の中で、唯一の希望のようにロゼリアを温めてくれた。
◇
独房に入ってから、三日が過ぎた。
その間、オーギュスタンは休む間もなく王都を駆け回っていた。
当時の施設の記録、警備の証言、あらゆる伝手を辿り、娘の無実を証明する糸口を探し続けていた。
「お嬢さま、旦那さまがきっと、証拠を見つけてくださいます。信じましょう!」
カトリーナは日に何度もロゼリアの牢を訪れては、励まし続けた。差し入れの毛布、温かいスープ、そして優しい声。
それらが、じわじわと体温と気力を奪っていくこの場所で、ロゼリアの心を繋ぎ止めてくれた。
「ありがとう、カトリーナ。……あなたがいてくれて本当によかった」
しかし、そのときは無情にも訪れる。
法官が牢の前に姿を現したのは、夕刻のことだった。手にした書状を広げ、抑揚のない声で読み上げる。
「魔導技術鑑定局による再検分の結果、残留魔力の痕跡は貴女のものと断定された。加えて、新たな目撃証言も得られた。よって――」
法官は一度言葉を切る。そして、
「国家反逆罪と認定し、死刑に処す。処刑は三日後。市中引き回しののち、直ちに執行する」
カトリーナが悲鳴のような声を漏らして崩れ落ちた。
「目撃証言? だれがそんな作り話を……」
ロゼリアはなにも言えなかった。
ひとつ確かなのは証拠などあるはずもないのに、なぜかそれが存在しているということ。
嵌められた。けれど、無実を証明し判決を覆す術を、ロゼリアは持ち合わせていない。
法官が去り、静寂の中、カトリーナのすすり泣きだけがいつまでも響いていた。
◇
判決が下り、ロゼリアは未決囚の監獄からさらに下層の牢に移った。
冷たい石の寝台に腰掛け、ロゼリアは膝の上で組んだ自分の手を、ただじっと見つめていた。
重い鉄の扉がぎぃと静かに開いた。
牢の入り口に立っていたのは、白髪の交じり始めた髪を丁寧に整えた、ロゼリアの父、オーギュスタン・ド・アルノー公爵。
だがその夜の彼は、いつもの公爵としての威厳をまとってはいなかった。肩は落ち、纏う空気そのものが、ひどく年老いて見えた。
無理もない。明日は市中引き回しののち、娘の刑が執行される。
オーギュスタンはゆっくりと歩み寄り、そして鉄格子越しに膝をついた。
愛おしげに娘を見つめ、鉄格子の間から手を伸ばした。少しかさついた手のひらが優しく頬を撫でる。
しばらくの沈黙のあと、彼は絞り出すように口を開いた。
「ロゼリア。……お前を守ってやれず、不甲斐ない父だった。許してくれ」
その声は震えていた。
かつて社交界でどんな難局にも動じないと評された男の声とは、とても思えなかった。
深く垂れた頭をロゼリアはただ静かに見つめた。
怒りも、悲しみも、不思議なほど湧いてはこなかった。目の前の最愛の父への思いが、ほかの感情の侵入を許さぬと言わんばかりに胸を占めている。
ロゼリアは微笑んだ。
「お父さま。わたくしはアルノー家の、……お父さまの娘で幸せでした」
強がりではなかった。心の底からそう思う。
たとえ命を奪われようとも、この思いだけはだれにも奪うことができない。
「ただお父さまのお役に立てなかったことが心残りです。王太子妃になることも、叶いませんでした」
言葉を続けながら、ロゼリアはふっと自嘲するように笑った。
オーギュスタンの肩が大きく震え、鉄格子を握る手に力がこもるのがわかった。嗚咽をこらえ、彼は何度も何度も頭を振った。
「そんなことはどうでもいい。私はただ、お前が笑っていてくれれば、それだけでよかったのだ」
「ありがとうございます、お父さま。民に罵声を浴びせられようとも、石を投げつけられようとも……決して、俯きません。ロゼリアは最期まで……」
思いが込み上げ、それ以上、言葉は続かなかった。けれど、続けなくても伝わっている気がした。
父と娘は冷たい鉄格子を隔てたまま、その時間を分かち合った。
残酷に、最後の夜は更けていく。




