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到着したのは中心街から少し外れた、こぢんまりとした宿だった。
「ご予約のお名前をうかがっても?」
女主人が台帳の名をなぞりながら、尋ねてくる。
「ミシェル・ボナールですわ。お世話になります」
「ボナールさま。お待ちしておりました」
ロゼリアはあらかじめ用意しておいた中性的な偽名を、迷いなく口にした。
入国時の通行許可証も、この宿の予約名も、すべて同じ名前で統一してある。万が一、身元を探られたとしても、性別すら特定できない名前であれば、多少の時間稼ぎにはなるはずだ。もっとも、そんなへまをするつもりは毛頭ないが。
案内された部屋は、簡素だがきれいに整えられていた。
扉に鍵をかけると、ロゼリアはトランクから丁寧に折り畳まれた大宮殿周辺の区画図を取り出し、卓上に広げた。
「当日の警備は軽く見積もってもこの倍。衛兵がいなかった庭園……それから高所にも、明日は警備がつきそうですわね」
先ほど確認したばかりの大宮殿の外周と衛兵の配置を、記憶が鮮明なうちに余白へと書き込んでいく。
「増員されるとわかっているなら、今日のうちに侵入してしまおうかしら。……ああ、ドレスでなければ汚れなど気にせずそうしていましたのに!」
灯りに照らされた地図を見つめながら、ロゼリアは幾つもの侵入経路を頭の中で慎重にシミュレーションしていった。
明日はいよいよ決行の日だ。
失敗は許されない。
夜が更けるまで、ロゼリアの思考は止まらなかった。
◇
翌日の昼下がり。
「あの、恐れ入りますが……追加料金をお支払いしますので、支度を手伝っていただけませんか?」
ロゼリアは宿の帳場に降り、女主人に声をかけた。女主人は目を丸くしたものの、すぐに人のよさそうな笑みを浮かべた。
「まあまあ、いいですとも! こんな別嬪さんの支度を任せてもらえるなんて、光栄だわ」
ロゼリアが女主人に手渡したのは、リュミエールの貸衣装屋で借りたレンタルのドレスとコルセット、パニエだった。
今回、だれにも内緒で屋敷を出たロゼリアが持ち出せたのは、トランク二つ分の荷物だけ。トランクに入れて持ち出せた晩餐会用の衣類といえば、シュミーズくらいだった。
そもそも、今世のロゼリアはまだ社交の場に着ていけるようなドレスを持っていない。かといって、私物の露出の少ないドレスなど着て歩けば、デビュタント前の令嬢だと知られるようなものだ。即刻、衛兵に追い出されてしまう。
(どこのだれが着用したかわからない衣装を着るのは抵抗がありますけれど、背に腹は代えられませんわ)
手際よくコルセットの紐を締め、幾重にも重なるドレスの生地を丁寧に整えていく。
髪色と同系の深みのある赤い生地が、鏡の中でふわりと肌に沿うように広がった。
「せっかくだから、髪も結ってあげましょうかね」
慣れた手つきで髪を編み込み、いくつかの後れ毛をわざと頬の周りに残してくれる。仕上がった自分の姿を、ロゼリアは鏡越しにじっと見つめた。
「ありがとうございます。助かりましたわ」
深く礼を告げると、ロゼリアは女主人に見送られ、夕闇の迫る通りへと踏み出した。
大宮殿の高い塀が見える路地まで来ると、ロゼリアは建物の裏手に回った。辺りに人影がないことを慎重に確認し、静かに深呼吸をした。
(さあ、まいりますわよ)
ゆっくり目を閉じて体の奥底に眠るあの膨大な魔力へと意識を向ける。そして、二つの魔法を同時に発動させた。
「岩石迷彩」
周囲の石塀の色と質感に、自らの輪郭を溶け込ませる。
指先から灰色がかった魔力の膜が広がり、ドレスごとロゼリアの全身を包み込んでいく。
やがてその輪郭は石塀に溶け込み、そこになにかがあるとは認識しにくい、ぼんやりとした存在へと変わっていった。
続けて、
「岩躯変転」
岩石を細かな砂の粒へと変える魔法。
小さく唱えながら目の前の塀面に手のひらを当てると、堅牢な石塀は崩れることなく一部を砂へと変えた。
ロゼリアはその砂の隙間を、迷いなくすり抜ける。
多重発動――しかもどちらも上位魔法だ。
ロゼリアの体が完全に塀の向こう側に出ると、背後の塀は何事もなかったかのように、音もなく元の状態に戻っていた。
こうして、塀と建物の壁、双方を難なく突破し、ロゼリアは晩餐会の会場へ侵入を果たす。
魔力切れも危うかったが、まっすぐ歩行できているところを見るとどうやら許容範囲だったらしい。
(ここまではシミュレーションどおりですわ)
胸の奥に確かな達成感が広がる。
だが、浮かれている暇はなかった。この先もひとつの失敗も許されない。
不審に思われ、衛兵に呼び止められ招待状の提示を求められでもしたら、その瞬間に、すべてが終わる。
そして、もうひとつ警戒しなければならないのは、この会場のどこかにいるであろう父オーギュスタン。
ドレスの裾を整え、乱れた呼吸を静めると、ロゼリアは優雅な足取りを装い、廊下を歩き始めた。




