第七話 翡翠の君[1]
馬車の扉が開いた瞬間、潮の香りを含んだ風がロゼリアの頬を撫でた。
(ようやく着きましたわ……)
アルノー領ノエルヴァルトを発ってから、六日。
予定では五日のはずだったが、慣れない乗り継ぎに手間取り、丸一日余分にかかってしまった。
万が一、だれかに姿を見られても、それが「アルノー公爵令嬢」だと結びつけられないように。そう、用心を重ね、アルノー領内にある魔導列車の駅ではなく、あえて一駅先の隣町まで馬車を使ったのも時間がかかった一因だった。
馬車に揺られ続けた体は鉛のように重い。それでも、馬車を降り立ち、目の前に広がる光景を目にした瞬間、ロゼリアの疲労は吹き飛んだ。
(ここがリュミエールの首都、アジール=クレール)
石畳の広場をぐるりと囲むように、露店が隙間なく立ち並んでいる。
異国の言葉と大陸共通語が交錯する不思議な空間に、行き交う人々は肌の色も、纏う衣装も、実に様々だった。
香辛料の刺激的な匂い、焼けた肉の香ばしい匂い。それらが潮風に混ざり合い、次々と鼻先をかすめていく。
前世でも、今世でも、これほど雑然としていて、それでいて活気に満ちた場所を、ロゼリアは知らなかった。
「――世界中から、人と物が集まる街」
その謳い文句に、偽りはないようだった。物珍しさに、思わず足取りが緩む。
「まあ……」
ふと、露店のひとつに並んでいた小さなコサージュに目が留まった。
淡いアメジスト色の花びらが、幾重にも重なっている。
(あら、お母さまに似合いそう)
そう思った瞬間、隣の露店に並ぶ、青いリボンが目に入る。
(こちらは、マギー先生に。そういえば、カトリーナのリボンが左右違う色でしたわね。なくしてしまったのなら、これを買っていこうかしら……はっ! わたくしとしたことが)
我に返ったロゼリアは、伸ばしかけていた手を、慌てて引っ込めた。
(こんなことをしている場合ではないでしょう!)
そう言い聞かせ、懐から取り出した地図に視線を落とす。
いよいよ明日、停戦百周年を記念する交流晩餐会が開催される。悠長に街並みを楽しんでいる時間など、残されてはいなかった。
(まずは、会場の下見ですわ)
気を引き締め直したロゼリアは、地図に記された印を頼りに、大宮殿のある方角へと足を向け直した。
潮風に混じる街の喧騒を背に、その足取りには、先ほどまでの浮ついた気配など、もう欠片も残っていなかった。
◇
街の喧騒を抜け、大通りをしばらく進むと、周囲の空気が目に見えて変わり始めた。
石畳の道幅が広がり、両脇に並ぶ建物も次第に荘厳さを増していく。
そして、その先に現れたのは、白亜の壁に金の装飾が施されたひときわ大きな建造物だった。
グラン・クレール大宮殿。
大陸の名の一部を冠した、迎賓館としても使用されるその大宮殿は、晩餐会を明日に控え、すでに物々しい空気が漂っていた。
正門の左右には、剣を佩いた衛兵が立ち、行き交う人々に鋭い視線を向けている。
ロゼリアは努めて何気ない足取りを装いながら、敷地の外周をゆっくりと歩いて回った。
大宮殿の外観に見惚れるふりをしながら、さりげなく警備の数を数えていく。
正門に二人。裏手の通用口らしき場所に二人。さらに塀の対角にそれぞれ一人ずつ。
(六人ですわね。今日のところは)
塀は高く、上部には結界が施されたような気配。正面から突破するのは不可能だろう。
だが、この程度の警備であれば、地属性の魔法をもってすれば、決して手が届かない相手ではない。
(大体把握しましたわ。あまり長居をしても不自然ですし、そろそろ行きましょう)
ロゼリアは大宮殿に背を向け、あらかじめ予約しておいた宿へと向かった。




