第六話 月夜の出立[1]
それから、五年の月日が流れた。
十二歳になったロゼリアは、美しい淑女へと成長していた。
赤い髪は艶やかに波打ち、はちみつ色の瞳は、深い知性の光を湛えている。
ロゼリアはまだ社交界に、その姿を現したことはない。おまけに、帝国と国境を接するこの辺境には、同じ年頃の令息令嬢などもいない。この年齢の令嬢が経験するようなお茶会や刺繍会、ダンスの練習会にも参加したことがなく、磨き抜かれた所作は今のところ屋敷の中でしか披露する場所がなかった。
それでも、噂というものは不思議と一人歩きするものらしい。王都の社交界では、まことしやかにこんな話が囁かれているという。
「王太子妃候補に大層お美しい令嬢がいるんだと」
「ああ、最北の辺境を治める、田舎公爵の娘だろ? 王都の本物の花をめでたことのない世間知らずのいう『美しい』なんて、真に受けるなよ」
一方、お膝元のアルノー領、ノエルヴァルトの街では、また別の噂が、親しみを込めて語られていた。
「うちの姫さまは王国一の美人だ。この間も、公爵夫人とお忍びで街歩きなさっていた」
「いずれは王都に嫁いじゃうんでしょう? 寂しくなるわねぇ」
マルグリットの薫陶よろしく、立ち居振る舞いのひとつひとつに、さらなる磨きがかかったことも、その評判を後押ししているのだろう。
「本日は他国の外交儀礼について、より深く学んでいただきます」
テーブルの上には各国の紋章や、宮廷での作法を記した書物が、ずらりと並んでいる。
「同盟国シャンテリー王国では、初対面の挨拶の際、右手ではなく、左手を差し出す慣習がございます。うっかり右手を出せば、相手方への侮辱と受け取られかねません」
淀みなく応じるロゼリアに、マルグリットは満足げに目を細めた。かつての一般的な教養にスポットを当てていたころとは比べ物にならないほど、内容は専門的で、密度も濃くなっている。
それでも、ロゼリアの吸収の速さは、いっこうに衰える気配を見せなかった。
マルグリットが着任した初日、わざと無能な振りをする作戦を実行するも、どういうわけか彼女には通用しなかった。
そのため、ロゼリアは方針を早々に切り替えた。――「使える知識は、今のうちにすべて吸収しておこう」と。
「なるほど……。地域によってこれほど作法が異なるものなのですね」
「その通りです。王太子妃ともなれば、こうした細部への配慮こそが、国の品格を左右するのです」
(だれがなるものですか)
内心で毒づきながらも、だれにも本心を悟らせない。
積み重ねてきた教養も、淑女としての振る舞いも、すべては理不尽な結末を繰り返さないための周到な武装に過ぎなかった。
しかし、残念なことに、実際ロゼリアの立場は順調に王太子妃に近づいていた。
六歳で非公式に届いた王太子妃の打診は、十歳を迎えるころには正式な話へと形を変えていた。マルグリットの授業内容が変わったのもそのためだ。
候補として名が挙がっているのは四名。ロゼリアのほかに、他家の公爵令嬢、伯爵令嬢、そして、同盟国シャンテリーの王女。その中、ロゼリアが筆頭候補と目されているという事実は、当人にとって、なんとも皮肉な栄誉だった。
その一方で、帝国の第一皇子との接触については、いまだなんの進展もなかった。
(これはひとつの仮定にすぎないけれど、おそらく、第一皇子はすでに他国へ侵攻し、戦果を挙げている。それでもこれほどまでに静かなのは、王家が情報統制を敷いているから?)
間もなくかの国と停戦状態に入って百年。いたずらに国民感情を煽るのは得策ではない。
そして、もうひとつ。
王家が把握しているのなら、最前線で帝国の動きを注視するアルノー家が「黒牙の狂獣」を知らないはずがない。
「これは探ってみる価値がありそうね」
◇
その夜、寝支度を整えたロゼリアは、領地産の年代物のワインを携えて部屋を抜け出した。
このワインは、夕刻のうちに、料理長マルセルに「お父さまにお酌してあげたいの」と頼み込んで手に入れたものだった。
これで父を酔わせて、上機嫌になったところで情報を聞き出す。
「光属性や闇属性には、本音を探る魔法があるのかしらね? でもわたくしは使えませんもの」
ありきたりな作戦かもしれないが、使い古された作戦というのはそれだけ実績もあるということにはならないだろうか。
そんな期待も含め、ワインを手に父の書斎へと向かう。
扉に手をかけようとしたところで、中から漏れる、両親の低い話し声に気づき、思わず動きを止めた。
「……停戦百年記念の、交流晩餐会か」
オーギュスタンの声には隠しきれない苦さがにじんでいた。
「陛下からも直々にお声がかかっているのでしょう? お断りするわけにも、まいりませんわね」
セラフィナの声も静かに続く。
「ああ。北方の防衛を担うアルノー家としても、無視できない場だろうということで、出席の打診が来ている。……正直、あまり気乗りはしないがな。帝国の連中と和やかに食事を共にするなど」
きっと眉根を寄せているだろう父の言葉を聞きながら、ロゼリアの頭の中では、目まぐるしく思考が巡っていた。
(帝国との、晩餐会?)
フルボトルのワインをぎゅっと握りしめ、息を殺して聞き耳を立てる。
この八年、手も足も出せなかった。
だが、ここにきてようやく、かの国との間にそびえ立つ巨壁の一部が割れ、一筋の光が差し込んだ思いだった。
第一皇子である彼は参加するのだろうか。
もし父に同行できれば、接点を持つことができるかもしれない。
(もしそうなら、お父さまを酔わせて情報を聞き出すなんて回りくどいことをするよりも、よほど確実にその懐に入ることができますわ)
ロゼリアの方針は決まった。
その晩餐会とやらにすべてを賭ける。
しかし、あの父のことだ。
「帝国の時代遅れの蛮族共の目に、私のかわいい娘を触れさせて堪るか。第一お前はデビュタント前だろう。そんな娘を連れて行けん」――そう言われて終わりだ。
正攻法で頼み込んだところで、けんもほろろに断られるのが目に見えている。ならば。
(強行突破するしかないわ)
静かにそう決意すると、ロゼリアは足音を忍ばせてその場を後にした。




