第45話 戦場の外側
雨が降り始めた時、最初に困ったのは青軍でも白軍でもなかった。
「西宿営地、天幕三棟に浸水」
「第四通信中継所、接地魔石の出力低下」
「南部搬入路、荷車二台立ち往生」
「救護所から乾燥布の追加要請」
演習運営本部の長机の前で、学生が両手を上げた。
「待って! 一つずつ!」
だが、報告は止まらない。
「南部宿営地から、飲料水保管庫の移設要請」
「第二調理所、薪の乾燥分が不足」
「東側実輸送班から、帰路変更申請」
「だから一つずつ!」
戦場では精霊兵が何千人も動いている。
だが、精霊兵は腹を減らさない。濡れない。風邪もひかない。
実際に食べ、濡れ、疲れるのは、学生、中央軍から派遣された下士官、教官、技官、医療要員、輸送担当者たちだ。
そして演習を支えている学生たちも、当然その中にいた。
*
「西宿営地から先に処理します」
運営統括担当の学生が言った。
「浸水している三棟、使用人数は?」
「四十二名」
「代替天幕は?」
「予備十棟。ただし北宿営地分も含みます」
「全部は使わない。四棟だけ」
隣から声が入る。
「一棟十六人規格です」
「なら三棟で足りる」
「荷物があります」
一瞬考えて、訂正する。
「……四棟。設営班を出して」
「人が足りません」
「どこにいる?」
「道路補修に二十二名」
「六人戻して」
施設担当の学生が顔を上げた。
「南部道路の作業が遅れます」
「どのくらい?」
「半刻ほど」
「演習部隊への影響は?」
「今のところありません」
「じゃあ戻して」
施設担当は少し不満そうだったが、頷いた。
その隣の机では、別の問題が始まっていた。
「乾燥布、救護所から二百枚追加です」
物資担当の学生が即答する。
「無理」
医療担当が顔をしかめた。
「必要です」
「在庫は百四十」
「寮用の予備があるでしょう」
「ある。でも、そこを開ける権限は私にない」
「誰なら?」
「運営統括」
二人が同時にこちらを見る。
運営統括担当は、さっきまで宿営地の話をしていた。
「何?」
「寮用乾燥布六十枚、救護所への転用許可を」
「返せる?」
物資担当が答える。
「今夜の洗浄と乾燥が予定通りなら」
外では雨が強くなっている。
三人とも少し黙った。
「……予定通りなら、です」
「やめよう」
医療担当が言う。
「でも」
「救護所は何に使う?」
「濡れた学生の保温と、軽度低体温の予防です」
「代替は?」
「毛布」
「何枚?」
「八十」
物資担当が帳簿を見る。
「毛布なら予備百二十」
「じゃあ毛布」
医療担当は少し考えた。
「重いですが」
「濡れてないならいい」
「分かりました」
*
戦場で白軍の輸送が泥濘に苦しんでいた頃、実際の演習運営側でも荷車が一台、完全に泥にはまっていた。
「押せ!」
学生六人が後ろから押す。
動かない。
中央軍から来た御者役の軍人が、腕を組んで見ていた。
「もっと右だ!」
「右ってどっちです!」
「お前の右だ!」
「こっち!?」
「そっちは俺の右だ!」
別の学生が叫ぶ。
「もう馬外した方が早くないですか!」
軍人が振り向いた。
「早く言え!」
「最初から思ってました!」
「じゃあ言え!」
馬を外し、荷を一度下ろす。軽くした荷車だけを押して、ようやく泥から抜けた。
学生の一人が、その場に座り込む。
「これ……評価されるんですかね」
「知らん」
「教官、見てないですけど」
軍人が学生を見る。
「見てないと仕事しないのか?」
「いや」
「ならやれ」
「はい」
少し離れた場所では、記録担当の学生が雨を避けながら一部始終を見ていた。
荷車が止まった時刻。判断。荷下ろし。馬の切り離し。作業再開。
全部、記録している。
*
午後になると、雨はさらに強くなった。
演習運営本部へ新しい報告が入る。
「南部第二輸送路、路肩崩落」
運営統括担当が顔を上げた。
「実輸送?」
「違います。対抗演習区域内です」
「安全確認は?」
「工兵班が向かっています」
「青白軍には?」
「まだ」
「通れる?」
「人は。荷車は不明」
「なら、判定が出るまで通知不要」
別の学生が口を挟む。
「白軍が使ってる道です」
運営統括担当は相手を見る。
「だから?」
「白軍だけ不利になります」
「天気は白軍だけに降ってる?」
「いえ」
「なら、そのまま」
現地では工兵担当の学生たちが路肩を調べていた。
棒を差す。
かなり深くまで泥に入る。
「荷車は無理」
「歩兵は?」
「通れる」
「軽装なら?」
「問題なし」
「重装?」
少し考える。
「速度低下」
判定を書き、本部へ送る。
その結果、白軍に通知されたのは一つだけだった。
荷車通行不可。
どう対応するかは、白軍の試験である。
そして運営側もまた、答えを教えてもらってはいなかった。
*
「第二調理所、夕食提供遅延見込み」
今度は食事だった。
運営統括担当が時計を見る。
「どのくらい?」
「一刻」
「原因」
「薪が濡れました」
「乾燥薪は?」
「予備を第一調理所へ回しました」
「どうして」
「第一調理所の熱精霊炉が一基停止」
運営統括担当の手が止まる。
「それ、聞いてない」
「さっき来ました」
「さっきって?」
「今です」
一瞬だけ静かになり、すぐ全員が動いた。
「第一調理所の提供数」
「二百八十」
「第二は?」
「三百四十」
「第三」
「百九十」
「第三に増やせる?」
食事担当が計算する。
「厨房能力が……五十なら」
「じゃあ五十」
「残りは?」
「第二を遅らせる?」
「午後組が戻ります」
「携行食は?」
「予備あり」
そこで少し沈黙した。
誰かが言う。
「携行食、出します?」
食事担当の学生が嫌そうな顔をした。
「またあれ?」
「非常用だぞ」
「今日、非常時ですよね」
「演習だけど」
「でも雨です」
「……そうだな」
運営統括担当が聞く。
「使える権限は?」
「演習統制責任者」
「申請して」
*
学生は教官の前で状況を説明した。
「第二調理所の遅延により、約百十名分について携行保存食を代替提供したいです」
「理由」
説明する。
「他案」
それも説明する。
「夕食全体への影響」
数字を答える。
教官は頷いた。
「許可」
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
一拍置く。
「判断したのは君たちだ」
学生が本部へ戻ると、周囲が見る。
「通った?」
「通った」
「よし」
それだけで、また仕事へ戻った。
*
夕方になっても雨は続いていた。
戦況上は白軍がまだ優勢だったが、運営本部に勝敗表はない。
ここにあるのは、人数、時刻、食料、水、負傷者、道路、通信、予算だった。
「通信中継所、復旧」
「南宿営地、水問題なし」
「救護所、毛布足りました」
「夕食、全員提供見込み」
一つずつ、問題の印が消えていく。
ただ、一件だけ残った。
「北部実輸送班」
「はい」
「戻ってない」
時計を見る。
予定時刻を超過している。
「通信は?」
「なし」
「最後の確認」
「一刻前」
「場所」
地図上、北西の演習区域外縁。
安全管理担当が立ち上がった。
「捜索を出します」
運営統括担当が確認する。
「すぐ?」
「遅延一刻」
「規定は?」
「一刻半で捜索開始」
「なら、あと半刻」
「雨です」
「分かってる」
「日没も近い」
二人は規定と地図を見比べた。
運営統括担当が少し考える。
「出そう」
「規定前です」
「うん」
「理由を記録します?」
「お願い」
安全管理担当が頷いた。
捜索班が出発した。
*
結果として、輸送班に事故はなかった。
倒木による迂回の途中で荷車の車軸を傷め、修理に時間がかかっていただけだった。
捜索班と合流した輸送担当の学生が、申し訳なさそうに言う。
「すみません」
安全管理担当の学生が聞く。
「怪我は?」
「ありません」
「ならいい」
「でも、捜索を」
「出したのはこっちの判断」
「規定より早くないですか」
「早い」
「怒られません?」
安全管理担当は肩をすくめた。
「さあ」
全員帰還の報告が本部へ届いた。
運営統括担当は椅子へ座り、初めて大きく息を吐く。
「終わった?」
隣の学生が帳簿を見る。
「まだ白軍の夜食配送」
「……終わってない」
*
翌朝、対抗演習は当然のように続いた。
青軍が動く。
白軍が動く。
その戦況を成立させるため、裏側の学生たちもまた動き始める。
彼らは剣を抜かない。魔法攻撃もしない。敵の橋も、集落も取らない。
それでも彼らが失敗すれば、演習そのものが止まる。
*
数日後。
全演習が終了し、運営本部の撤収が始まった。
机の上から備品が消え、最後に大量の紙だけが残った。
実輸送記録、食事提供表、通信障害記録、医療報告、施設補修記録、事故報告、予算執行表。
担当教官が学生たちを見る。
「ご苦労」
それだけだった。
一人の学生が、少し不満そうに手を挙げた。
「教官」
「何だ」
「我々の評価って、青軍や白軍みたいに結果が分かりません」
周囲の学生も少し顔を上げる。
「成功したんでしょうか」
教官は机の上の記録を見る。
全員に食事が届いた。
全員が寝る場所を確保した。
必要な者は治療を受けた。
通信網は最後まで動いた。
演習は中止されなかった。
重大事故もなかった。
教官は学生たちを見る。
「演習は最後まで続いただろう」
「はい」
「なら、君たちの仕事はだいたい成功だ」
学生たちの顔が少し緩む。
誰かが聞いた。
「だいたい?」
「改善点は山ほどある」
ため息と笑いが混じった。
*
別室では、評価担当者たちが記録を読んでいた。
一人の官吏が紙を指す。
「規定前の捜索班派遣。これを決めたのは?」
「運営統括担当の学生です」
「規定違反?」
「違反ではありません。裁量範囲です」
「理由は」
「降雨、日没、通信途絶」
官吏は頷き、次の紙を見る。
「携行保存食への切り替えは?」
「食事運営班です」
また一枚。
荷車が泥にはまった際の対応記録。
通信中継所の復旧記録。
救護所の物資変更。
道路通行判定。
一枚ずつ、名前がついている。
戦場で誰が橋を取ったか。
誰が敵を破ったか。
それとは別に。
誰が演習を止めなかったか。
それもまた、国家は見ていた。




