第41-2話 戦場を小さくする(2)
午前の終わり、空が暗くなった。
最初に気づいたのは前線ではなく、演習運営側だった。
「西から雲」
野外通信所で担当学生が空を見る。
風も少し強い。
「雨?」
「たぶん」
「予報は?」
「午後遅く」
「今、まだ昼前だぞ」
白軍本部でも、マリエッタが天幕の幕を押し上げた。
空は灰色だった。
「嫌ですね」
ヒルデガルドが聞く。
「何が?」
「風」
「雨?」
「来そうです」
白軍総指揮官が尋ねる。
「どの程度」
「分かりません。ただ、降るならここは悪くなります」
マリエッタは地図の南側を指した。
低地、河川沿い、舗装の弱い街道。
ヒルデガルドが言う。
「今から引く?」
「まだ、そこまでは」
「なら?」
「輸送を前倒しします」
白軍兵站が動き始める。
荷車を増やし、交換魔石、乾燥糧食、医療資材の一部を前へ送る。
担当学生が聞く。
「予定より多いです」
「雨が降ってから運ぶよりいいです」
「降らなかったら?」
「前に置いておけばいい」
「倉庫容量が」
「分散します」
「どこに?」
「橋頭堡倉庫と南部集積所。両方です」
担当学生が走っていった。
*
青軍では、エリアスも空を見ていた。
ガイウスが聞く。
「雨か」
「そうみたい」
「お前、これ読んでた?」
「全然」
即答だった。
「じゃあ、後退したのは」
「白軍が強かったから」
「何だよ」
「何?」
ガイウスは少し笑った。
「お前でも偶然あるんだな」
「あるよ」
雨は午後一刻を待たなかった。
最初は大粒の数滴だった。
地面に黒い点が増える。
そして、一気に来た。
*
野外に展開する精霊兵は濡れない。
だが、実際に指揮する学生は濡れる。中央軍下士官も、通信器材も紙地図も、荷車も道路も、すべて雨の影響を受ける。
精霊兵の疲労判定にも、悪化した地形条件が反映された。
荷車の速度は落ち、泥濘では歩兵の進行速度も低下する。
白軍南部では、すぐに影響が出た。
「車輪、取られます!」
荷車が泥へ沈む。
一台が止まり、後ろが詰まる。
学生輸送指揮官が叫んだ。
「右へ寄せろ!」
「無理です!」
「荷を半分降ろせ!」
「どこへ!」
「脇!」
「濡れます!」
「覆いを!」
雨音が声を消していく。
*
マリエッタのところへ、報告が増え始めた。
南部街道、遅延。
東橋、ほぼ通常。
中央、輸送速度低下。
「南、どのくらい」
「今のところ二刻遅れ」
「今のところ?」
「さらに悪化する可能性があります」
「空荷車を戻して」
「どこから」
「東」
担当学生が止まる。
「東橋の予備が減ります」
「橋頭堡は昨日までの備蓄で持ちます」
「どのくらい」
「四刻」
マリエッタはすでに計算していた。
「南を先に助けます」
白軍総指揮官が聞く。
「南の前線を下げるか」
ヒルデガルドはマリエッタを見る。
マリエッタは頷きもしないし、首も振らない。
「維持できます」
「本当に?」
「できます。ただし、予備輸送力を使います」
「使うと?」
「次の問題への余裕が減ります」
白軍総指揮官は少し考えた。
「今は維持する」
「了解しました」
*
観戦武官天幕では、雨音が幕を叩いていた。
立体戦場図は雨の影響を受けない。
だからこそ、変化がよく見えた。
白軍は広い。
青軍は狭い。
そして、部隊状態を示す色が変わり始めている。
朝、白軍の多くは緑だった。いま、南部には黄色が混じり、中央前方も緑から黄へ落ち始めている。東はまだ緑を保っていた。
対する青軍は、多くの部隊がまだ緑だった。
一人の武官が立体図へ近づく。
「白軍の南が落ちている」
学院教官が答える。
「輸送遅延です」
「兵はまだ多いぞ」
「食料だけが継戦能力ではありません」
疲労、補給、移動、通信遅延。
そのすべてが色に反映される。
武官は青軍側を見る。
「こっちは?」
「戦線短縮で移動距離が減っています」
「雨を読んだ?」
「違います」
「では」
「白軍が強かったので、戦域を狭めたようです」
武官は少し黙った。
「結果として」
「はい。雨が差を大きくしています」
*
青軍前線では、撤収済みの部隊ほど後方拠点に近かった。
倉庫も宿営地も通信所も近い。
雨は辛い。
だが、補給は途切れにくい。
昨日の戦闘で疲れていたガイウスの第一大隊は、その日ほとんど動かされなかった。
ガイウスは天幕から雨を見る。
「俺ら、休み?」
副官学生が答える。
「今のところ」
「戦争中なのに」
「命令です」
「……昨日までなら嫌だったな」
「今は?」
「脚が重い」
副官が笑った。
*
夜になっても雨は続いた。
青軍本部の地図では、白軍領域がさらに広がっている。判定上、青軍の状況はむしろ悪化していた。
軍務参謀が言う。
「領域点、かなり離された」
「はい」
「南を取り返すべきでは?」
「今夜は動かしたくない」
「明日なら?」
「道路を見てから」
「また待つのか」
エリアスは少し考えた。
「今回は、向こうの方が待ちにくいと思います」
*
白軍本部では、マリエッタが机からほとんど動いていなかった。
紙が増えている。
南は遅延。東は維持。中央では予備輸送力を消費。食料と魔石はまだあるが、使える荷車と輸送上の余裕は確実に減っていた。
ヒルデガルドが温かい飲み物を持ってきた。
「飲んで」
「ありがとうございます」
「どう?」
「維持しています」
「聞き方が悪かった」
隣に座る。
「大丈夫?」
マリエッタは少し笑った。
「まだ」
ヒルデガルドも地図を見る。
白い領域は大きい。
「広くしすぎた?」
マリエッタは即答しなかった。
「昨日までなら、大丈夫でした」
それだけだった。
雨音が強い。
ヒルデガルドが言う。
「エリアスは、雨まで考えてたと思う?」
「いいえ」
「私も」
「でも」
マリエッタが青軍側の地図を見る。
小さい。
「運はよかったですね」
「腹立つわね」
「少し」
その時、白軍通信担当が新しい報告を持ってきた。
「南部第二輸送路」
マリエッタが顔を上げる。
「はい」
「橋梁手前で路肩崩落」
手が止まった。
「通行は?」
「荷車は通れません」
ヒルデガルドも顔を上げる。
白軍総指揮官が近づいてくる。
マリエッタは地図上の南部輸送路を確認した。
第一経路は泥濘で遅延。
第二経路は通行不能。
第三経路は大きく迂回する。
「代替は?」
総指揮官が聞く。
マリエッタはすぐには答えなかった。
距離。
荷車数。
備蓄。
消費速度。
雨。
一つずつ頭の中で合わせる。
「あります」
「なら」
「でも」
声が少し変わった。
「これ以上、何か起きたら」
ヒルデガルドが見る。
「余裕がない?」
「はい」
*
観戦武官天幕では、白軍南部の色はまだ黄色だった。
赤ではない。
青軍はまだ緑。
一人の武官が白軍の広い展開面を眺めた。
朝なら、明確な優勢に見えた。
今も領域は白軍の方が広い。保持している拠点も多い。
だが、その広い領域へ伸びる部隊表示の色は、少しずつ変わっていた。
「面白くなったな」
隣の武官が聞く。
「どちらが?」
「戦争が」
*
深夜。
青軍本部で、エリアスは最後に地図を畳む前、白軍領域を見た。
昨日は大きいと思った。
今日は、もっと大きい。
だが今は、違って見える。
白軍が持っている土地は、そのまま白軍が守らなければならない土地であり、補給し続けなければならない土地でもある。
地図の上では、どれも同じ白い面だった。
エリアスは青軍側を見る。
小さい。
狭い。
少ない。
でも、近い。
「エリアス」
天幕の入口からガイウスが声をかけた。
「寝ないのか」
「寝る」
「明日、動く?」
エリアスは地図を見る。
「たぶん」
「やっと?」
「道路次第」
「それ聞かなきゃよかった」
外はまだ雨だった。
拠点も領域も、これまでの戦果も白軍が上回っている。判定表を見れば、依然として白軍優勢だ。
ただ、戦場は朝よりずっと重くなっていた。
そして、その重さをより多く抱えているのは、広い方だった。




