第34-1話 (オマケ) 中央食堂の危機(1)
朝。
マダム・ベルタ・グラナートは、愕然としていた。
「……もう一度言ってごらん」
中央厨房。
四基並んだ巨大な熱精霊釜の前で、若い料理人が縮こまっている。
「ですから……第三釜と第四釜が」
「聞こえなかったね」
「共通魔力管の調整弁が破損しました」
「それで?」
「火が入りません」
「それで?」
「昼までには……」
若い料理人は言葉を切った。
ベルタが、にっこり笑う。
「昼までには?」
「……直りません」
*
沈黙。
中央厨房では朝食の片付けが終わり、すでに昼食の仕込みが始まっている。
切られた根菜、肉、穀物、大量のパン生地、香草。積み上げられた食器。
すべて、ある。
料理人もいる。
学生も、間違いなく来る。
ただし。
釜が二つない。
*
「今日、何人だい」
「中央食堂予定、九百六十三名です」
「午後一番が実技の連中は?」
「軍務、魔法、工務合わせて二百八十名ほど」
「遅刻は?」
「認められません」
ベルタは腕を組んだ。
五十を越えた大柄な身体。太い腕。腰には大きな前掛け。白髪の混じり始めた髪を後ろで束ねている。
普段なら、笑い声だけで厨房の端まで聞こえる。
今日は笑っていない。
「……テレシアの秤が、厨房ごとひっくり返ったね」
*
それでも、マダム・ベルタは厨房長だった。
指示は速かった。
「煮込みはやめ! 肉は薄く切る! 焼き台を二面追加!」
料理人たちが動く。
「根菜は?」
「細切り! 半分は汁物、半分は蒸せ!」
「パン窯は?」
「二番窯まで連続で回せます!」
「やりな!」
「はい!」
「冷菜に回せる豆は全部出しな!」
巨大な厨房が、一斉に動き始めた。
*
一刻後。
副料理長が計算板を持ってきた。
「どうだい」
「六百四十」
ベルタの眉が動く。
「もう一回」
「六百四十食です」
「焼き台を増やしただろ」
「配膳まで含めると、これ以上は」
ベルタは計算板を奪った。
調理、盛り付け、食器、配膳口、洗浄。
一通り目を走らせる。
「……七百」
「厨房長?」
「無理をすれば七百まで出す」
「残り二百六十余りは?」
ベルタは答えなかった。
*
倉庫を見る。
食材はある。
夕方になれば料理できる。
でも、学生の昼休みは夕方には来ない。
*
「西寮と南寮」
ベルタが言った。
「夕食用の保存料理、もう入ってるね」
「昨日搬入済みです」
「何食分動かせる」
「両方合わせれば二百近くは」
ベルタは黙った。
「厨房長?」
「駄目だ」
「しかし」
「夕飯だよ」
ベルタは腕を組む。
「昼飯が足りないから夕飯を食っちまいました、なんて料理人がどこにいる」
誰も答えない。
「それに、もう寮の管理物資だ。私の一存じゃ動かせない」
*
別の料理人が言った。
「非常糧食は?」
全員が見る。
壁の向こうには、学院の非常備蓄庫がある。
戦時や災害、包囲、動員などに備えた保存食。加熱せずに食べられ、保存性が高く、栄養量も規格化されている。
そして。
「嫌だね」
ベルタが言った。
「厨房長」
「あんなものを昼飯だって出したら、料理人の看板を下ろすよ」
「ですが」
「それに私に開ける権限はない」
ベルタは巨大な木杓子を持ち上げた。
「手を動かしな!」
「はい!」
*
その頃。
何も知らない学生たちは、戦術論の授業を受けていた。
*
終業。
教官が資料を閉じる。
「なお」
学生たちが立とうとして、止まる。
「本日、中央食堂の昼食提供が遅延する可能性がある」
リオネルが真っ先に反応した。
「え」
「どのくらいですか?」
ガイウスが聞く。
「知らん」
「そこ重要ですよ」
「私は厨房長ではない」
マリエッタが手を止める。
「何かあったのでしょうか」
「調理魔道具の故障だそうだ」
エリアスが立ち止まった。
*
「行くの?」
廊下でヒルデガルドが聞いた。
「うん」
「どうして」
「どのくらい遅れるのか知りたい」
「待てばいいでしょう」
「午後の授業に間に合わなかったら困るよ」
「あなたね……」
「俺も行く」
ガイウスが言う。
「俺は飯が出るならどこでもいい」
リオネル。
「でしたら食堂へ行くのでは?」
マリエッタに言われ、リオネルは少し考えた。
「……そうだな」
結局、五人とも中央食堂へ向かった。
*
厨房入口。
戦場だった。
料理人が走る。籠が行き交い、皿が積まれる。肉を焼く音、包丁の音、噴き上がる蒸気。怒号。
その中心に、巨大な木杓子を持ったベルタがいた。
「そこじゃない! 二番台だ!」
「はい!」
「パン窯、あと何分!」
「十二分!」
「十一分で出しな!」
「無茶です!」
「じゃあ十二分!」
リオネルが呟く。
「何だったんだ今の」
「急がせたかったのでしょう」
マリエッタが答えた。
*
ベルタが五人を見つけた。
「何してる!」
全員が止まる。
「学生が入るところじゃないよ!」
エリアスが聞いた。
「昼食、出ますか?」
「出す!」
「何時に?」
ベルタが止まった。
ヒルデガルドが額に手を当てる。
「エリアス」
「何?」
「言い方」
ベルタが、ゆっくりエリアスを見る。
「坊や」
「はい」
「喧嘩売ってるのかい?」
「違います」
「なら帰りな!」
「午後の授業に間に合いますか?」
「……」
「僕たち、魔法実技です」
ベルタの顔が少し変わった。
*
五人は、なぜか厨房脇の小机にいた。
ベルタが計算板を置く。
「九百六十三人」
エリアスが読む。
「時間内に出せるのは?」
「七百」
「料理を変えて?」
ベルタの眉が上がった。
「煮込みは中止。肉は薄切り。根菜は細切り。冷菜を増やして、パン窯は連続運転」
「じゃあ、料理を変えるのはもう――」
「とっくにやってるよ」
「ですよね」
素直に引いた。
ベルタの眉が少しだけ下がる。
*
マリエッタが調理計画を見る。
「七百は本当に出せそうですね」
ベルタが彼女を見る。
「分かるのかい」
「家で商売を少し」
「何屋だい」
マリエッタが答える。
ベルタは頷いた。
「なら分かるだろ。これ以上料理を速くしたら、飯じゃなくなる」
「はい」
エリアスが聞く。
「食材が足りないわけではないんですね」
「むしろ余るよ」
「夕方なら作れる?」
「釜が直ればね」
「修理は?」
「早くて午後。遅ければ夕刻」
*
エリアスは計算板を見る。
九百六十三。
七百。
差は二百六十三。
「寮の夕食」
ベルタの顔が変わった。
「それは考えた」
「どのくらいあります?」
「二百弱」
「借りれば」
「駄目だ」
「どうして?」
「夕飯だからだよ」
「夕食まで何時間あります?」
ベルタが、エリアスを見る。
*
エリアスは紙を取った。
「仮に百八十食借ります」
数字を書く。
「昼の不足は八十三」
「だから夕飯が百八十減るだろ」
「釜が午後に二基復旧した場合、夕食までに何食作れます?」
「そんなもの――」
ベルタが止まる。
料理人の頭で計算する。
「……二百五十は戻せる」
「夕刻まで直らなかったら?」
「百五十くらい」
「その場合だけ三十不足」
「そうなるね」
「だったら」
エリアスは数字を指した。
「夕食を減らすんじゃありません。夕食の在庫を、数時間だけ借りるんです」
*
ベルタが紙を見る。
長い沈黙。
「……坊や」
「はい」
「悪い商人になれるね」
「父にも似たこと言われました」
「褒めてないよ」
「父もそう言ってました」
ヒルデガルドが少し笑った。
*
「でも」
ベルタが言う。
「私には動かせない」
「誰なら?」
「寮監、食堂管理官、それから学院の許可」
エリアスが頷く。
「じゃあ、そこは僕たちでは無理ですね」
「当たり前だ」
*
エリアスは、もう一度数字を見る。
七百に百八十を足して、八百八十。
残り、八十三。
「戦時保存食は?」
「嫌だね」
「あります?」
「ある」
「何食?」
「千五百」
「十分ですね」
「坊や」
木杓子が机に置かれた。
「私は料理人だよ」
「はい」
「あんなものを学生の昼飯に出したなんて、死んでも言われたくないね」
エリアスは少し考えた。
「昼食として出さなければ?」
「何?」




