第31-1話 見えない盤面(1)
敵が見えない。
それだけで、同じ盤がまるで別のものになった。
*
「偵察騎兵、前進」
精霊駒が街道を進む。
三枡、四枡、五枡。
その先は白い霧。
何も見えない。
駒がもう一歩進むと、前方の霧が薄くなった。
森林。
無人。
さらに先。
丘の裾に赤い光が浮かぶ。
『敵発見』
戦術盤が告げた。
小さな敵駒が、霧の中から姿を現す。
軽歩兵、一個分隊。
学生たちが身を乗り出した。
「見えたな」
教官が言う。
何人かが頷く。
「では」
教官が指を鳴らした。
偵察騎兵が後退する。
同時に、敵駒が再び白い霧へ沈んだ。
「え?」
「消えた」
「偵察騎兵を下げたからだ」
教官は盤を指す。
「一度見つけても、見えなくなるんですか?」
「当然だ。敵は、その場で諸君に見られるために待っていてくれるのか?」
誰も答えなかった。
*
第三段階。
部隊規模は中隊。
歩兵、弓兵、騎兵、斥候、少数の魔法支援要員からなる複数の小隊を指揮する。
手番の基本は前回と同じだった。
自分のターンでは、自軍の全ての駒に一度ずつ行動を命じることができる。行動を終えれば、相手のターンへ移る。
ただし、今回は盤面のすべてが見えない。
分かるのは、自軍の視界、偵察された範囲、味方から届いた報告だけ。
しかも。
「情報には時刻がある」
教官が黒板へ書いた。
『敵歩兵一個小隊。東丘陵。午前九時十五分確認』
「これは午前九時三十分にも正しいか?」
一人の学生が手を挙げる。
「分かりません」
「そうだ」
教官は頷いた。
「情報とは、事実そのものではない。ある時刻に、誰かが、何かを、そう認識したという記録だ」
エリアスの筆が止まった。
少し。
面白い。
*
最初の演習。
ガイウスは慎重になった。
前回までのように、主力を真っ直ぐ進めない。
斥候を前へ。
騎兵を左右へ広げる。
主力はその少し後ろ。
「遅くない?」
リオネルが横から言う。
「見えないところに突っ込みたくない」
「意外と臆病」
「慎重と言え」
結果は堅実だった。
大勝はしない。
だが、大敗もしない。
教官評価、上。
*
リオネルは、相変わらず速かった。
偵察騎兵、軽歩兵、斥候を広く展開する。
「見つけた」
「こっちも」
「ここ空いてる」
情報量は多い。
ただし。
主力が追いつかない。
「敵見つけたのに攻撃できない!」
マリエッタが盤を見る。
「偵察部隊だけ先に行きすぎです」
「見つける授業じゃないの?」
「戦う授業でもあります」
「忙しいな、軍隊」
*
マリエッタは慎重だった。
偵察。
確認。
進軍。
そして、また偵察。
無理をしない。
「確実ですね」
教官が言う。
「はい」
「だが、時間を使いすぎる」
「……はい」
「情報を集めれば判断が正しくなるとは限らない。情報を待っている間にも、敵は動く」
マリエッタは少し悔しそうに、その言葉を記録した。
*
エリアス。
一戦目。
偵察を出す。
敵を発見。
位置と時刻を記録。
別方向へ偵察。
また敵を発見。
戦力、地形、確認時刻。
全て書く。
「……たぶん」
敵主力の位置を推定する。
自軍を動かす。
いない。
「え?」
次の偵察。
別の場所にいる。
「動いた?」
対戦相手が顔を上げる。
「動くよ」
「そうだよね」
二戦目。
今度は移動可能範囲まで計算した。
敵騎兵を発見。
そこから五分後。
最大移動範囲。
平地ならここまで。
街道ならさらに遠い。
森林なら近い。
地形補正も入れる。
「ここか」
偵察を出す。
いない。
その直後。
別方向の霧が晴れた。
敵主力。
側面。
「……あ」
敗北。
*
ヒルデガルドは盤を見ていた。
いや。
正確には、相手を見ていた。
対戦相手は前回、中央の丘を好んだ軍務志望の学生だった。
序盤。
ヒルデガルドは偵察騎兵を南へ出した。
敵斥候と接触。
すぐに後退。
次に軽歩兵。
また南。
敵に見つかる。
後退。
三度目は小規模な歩兵部隊。
やはり南。
「また?」
ガイウスが言った。
エリアスも盤を見る。
南に何かあるように見える。
相手も、そう思ったらしい。
敵偵察が南へ集まり始める。
主力の一部も動く。
だが、ヒルデガルドには見えていない。
霧の向こうだから。
それでも。
「騎兵、北へ」
北側を進む。
『敵なし』
さらに前進。
『敵なし』
もう一度。
霧が開いた。
敵の補助指揮所。
『敵指揮施設発見』
「……え?」
対戦相手がヒルデガルドを見る。
彼女は小さく笑った。
*
勝利。
教官が尋ねる。
「なぜ北が薄いと判断した?」
「南を見せたからです」
「南へ敵主力が移ったことは確認していない」
「はい」
「では、なぜ?」
ヒルデガルドは少し考えた。
「彼なら、確認すると思ったからです」
対戦相手が顔を上げる。
「俺?」
「はい」
「どうして」
「前回、要地を確保したあと、そこを守るために兵力を集めました」
「それが?」
「あなたは、不確定なものを放置するのが嫌いなんだと思いました」
教室に少し笑いが起きる。
対戦相手は頭を掻いた。
「間違ってないのが腹立つな」
教官がヒルデガルドを見る。
「つまり、敵の配置を推測したのではない」
「はい」
「敵指揮官の判断を推測した」
「そうです」
教官は記録板に何かを書いた。
*
次の対戦。
ヒルデガルドは、別のことをした。
斥候一個分隊を、わざと見つけさせる。
一度。
二度。
三度。
同じ方向。
相手が追う。
四度目。
斥候は出ない。
敵の騎兵だけが前へ出た。
その側面。
森林。
ヒルデガルドの軽歩兵が待っている。
「伏撃」
森林から緑色の光が飛び出した。
軽歩兵が敵騎兵へ殺到する。
騎兵を包んでいた赤い光が激しく揺れ、一部の駒が光を失って倒れた。
「うわ」
リオネルが笑う。
「性格悪い」
ヒルデガルドが振り向く。
「戦術よ」
「それ、本人の前で言える?」
「言えるわ」
対戦相手が顔を上げた。
「聞こえてるぞ」




