第28話 (オマケ) 誰かの目に映ること
(今回は本編ではない、オマケ回です)
休日の午後。
第七寮一階の談話室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
窓際では数人が刺繍をし、奥の卓では課題を広げている学生たちがいる。その一角では、同じ第七十三期の女子学生が五人ほど長椅子を囲んでいた。
マリエッタも、その中にいた。
話題は授業でも、実習でも、試験でもなかった。
「だから、あの子、絶対そうだって」
「誰と?」
「第二班の人」
「嘘」
「この前、一緒に街に出てたの見たもの」
「それだけで?」
「二人でよ?」
「たまたまかもしれないでしょう」
「でも、二人とも楽しそうだったの」
笑い声が上がる。
マリエッタはお茶を飲みながら聞いていた。
こういう話は嫌いではない。
ただ、自分から話すことはほとんどなかった。
誰と誰が最近よく一緒にいる。どの男子が格好いい。どの貴族家の学生が人気だ。王族の学生は自由に恋愛できるのか。
そんな話。
「ねえ、マリエッタ」
突然、名前を呼ばれた。
「はい?」
「誰が好きなの?」
マリエッタは一瞬、質問の意味を考えた。
「誰、とは?」
「だから」
相手の少女が笑う。
「男の子」
「いませんけど」
即答。
「本当に?」
「はい」
「気になる人も?」
「いません」
「一度も?」
「一度もです」
周囲から、
「へえ」
と声が上がった。
なぜ驚かれるのか分からない。
別の少女が聞いた。
「じゃあ、好きって言われたことは?」
マリエッタの手が止まった。
少し考える。
幼い頃。レルナ郡の近所。地方学院。そして統学院。
思い返す。
「……ないですね」
「意外」
「そうですか?」
「だってマリエッタ、普通に可愛いじゃない」
「普通に、は余計です」
笑いが起きる。
マリエッタも笑った。
それで話題は別の子へ移った。
特に何もなかった。
そのはずだった。
*
夜。
自室。
マリエッタは鏡の前に座っていた。
太い三つ編みを解き、栗色の髪へ櫛を通す。
いつも通り。
なのに、ふと鏡の中の自分を見る。
「……ないんですね」
誰にも、好きだと言われたことがない。
今まで別に困らなかった。
むしろ、そんなことを気にしている暇がなかった。
勉強、家の手伝い、植物、農地、学院、友人。
それで十分だった。
それなのに、今日は少しだけ気になった。
「私って」
鏡の中の自分に言う。
「そういうふうには、見えないんでしょうか」
言ってから恥ずかしくなった。
「何を言ってるんでしょう」
櫛を置く。
寝る。
そう決めた。
*
翌朝。
第七寮一階。
朝食へ向かおうとしていたエリアスの襟が折れていた。
いつものことだった。
ヒルデガルドが気づく。
「エリアス」
「何?」
「動かないで」
「?」
彼の正面へ立つ。
襟を直す。
ついでに上衣を見ると、釦も一つ掛け違えている。
「昨日ちゃんと掛けた?」
「掛けたよ」
「どうしてこうなるの?」
「一回脱いだから?」
「それは全員同じでしょう」
少し離れたところで、マリエッタはそれを見ていた。
普段なら。
またやっている。
それだけだった。
今日は少し違った。
ヒルデガルドは、エリアスの襟が曲がっていることに気づく。
何かを忘れていれば気づく。
疲れていれば、たぶん本人より先に気づく。
そしてエリアスも、それを特別なこととは思わず受け入れている。
「……不思議ですね」
小さく呟いた。
横からリオネルが来た。
「何が?」
「何でもありません」
「あの二人?」
「違います」
「今見てたじゃん」
「見てません」
「見てたよ」
「見てません」
「はいはい」
*
その日の夕食。
五人は、いつもの卓を囲んでいた。
なぜか。
マリエッタの口から出た。
「皆さんは、将来結婚したいと思いますか?」
全員が止まった。
リオネルが匙を持ったまま見る。
「何?」
「質問です」
「急だな」
ガイウスは少し考えた。
「いつかは」
「普通ですね」
「普通で悪いか」
エリアスが言う。
「考えたことない」
「でしょうね」
ヒルデガルドが即答する。
「何で即答するの?」
「分かるから」
リオネルが笑った。
「俺は、まあ」
「まあ?」
マリエッタが聞く。
「楽しい人なら」
「雑ですね」
「細かく決めても仕方ないだろ」
そこで、リオネルがマリエッタを見る。
「でも、マリエッタはいい嫁になると思うけどな」
沈黙。
「……そうですか」
「うん」
「どういう意味で?」
「料理できるし」
「はい」
「生活力あるし、気も利くし、怪我したら手当てしてくれそうだし」
ヒルデガルドが、ゆっくり顔を上げた。
ガイウスも。
エリアスだけが普通に食べている。
マリエッタは笑顔だった。
「それは」
「うん」
「女性として褒めています?」
リオネルが止まる。
「え?」
「減点ね」
ヒルデガルドが言った。
「何で!?」
「今のは駄目よ」
「褒めただろ!」
ガイウスも頷く。
「方向が母親だな」
「お前まで!?」
エリアスが口を挟んだ。
「でも、マリエッタは頼りになるよ」
「エリアス」
「何?」
「今は黙っていてください」
「何で?」
「傷口が広がります」
「何の?」
リオネルが頭を抱えた。
「こいつより俺の方がましだと思う」
「比較対象が低すぎるのよ」
ヒルデガルドが言う。
マリエッタは笑った。
本当に、少しだけ。
でも。
その夜、自室へ戻った時、ふと思った。
――いい嫁。
悪い言葉ではない。
むしろ褒めているのだろう。
ただ、少し違う。
自分が知りたかったのは、そういうことではなかった気がする。
*
数日後。
学院購買。
授業用の紙束、インク、糸、簡単な菓子、日用品。
マリエッタは、その中で新しい髪紐を一本買った。
深い緑色。
いつものものが少し傷んできたから。
ただ、それだけ。
翌朝。
何となく、新しい髪紐を使った。
いつもより少し高い位置で髪をまとめる。
自分では、大差ないと思った。
*
昼休み。
中央図書館の前。
マリエッタは一人で資料を抱えて歩いていた。
前から、同学年の男子学生が来る。
別の寮棟に所属する行政志望の学生で、何度か授業で一緒になった程度だった。
名前は知っている。
向こうも知っている。
すれ違う。
「セラン生」
「はい?」
男子学生が少し立ち止まった。
「今日、髪型違う?」
マリエッタも止まる。
「少しだけ」
「似合ってるね」
それだけ。
「では」
軽く学院礼をして、そのまま行ってしまった。
マリエッタは数秒、その場に立っていた。
「……え?」
振り返る。
もう遠い。
本当に。
それだけだった。
*
その日の夕方。
第七寮三階の自室。
マリエッタは髪を解こうとして、手を止めた。
鏡を見る。
朝と同じ。
深い緑の髪紐。
いつもより少し高い位置でまとめた髪。
横から見る。
正面。
もう一度、横。
「……別に」
普通。
でも。
口元が少し緩んだ。
「見ている人も、いるんですね」
鏡へ言う。
それだけで、少し気持ちが軽くなった。
誰かを好きになったわけではない。
誰かに好かれたとも、まだ分からない。
でも。
自分にも、そういうことが起こる可能性はちゃんとあるらしい。
今は、それで十分だった。
*
扉を叩く音がした。
「マリエッタ?」
聞き慣れた声。
「はい」
扉を開けると、ヒルデガルドが立っていた。
「どうしたの?」
「明日の課題、確認しようと思って。今いい?」
「大丈夫です」
ヒルデガルドが部屋へ入り、ふとマリエッタの髪を見る。
「その結び方、似合ってるわね」
マリエッタが笑った。
「ありがとうございます」
ヒルデガルドは空いている椅子へ向かう。
マリエッタは、その背中を見た。
少し考える。
そして。
「ヒルデガルド」
「何?」
マリエッタは、できるだけ普通の声で聞いた。
「一つ聞いてもいいですか?」
「いいけど」
「エリアスの、どこがいいんです?」
ヒルデガルドが完全に止まった。
数秒。
「……は?」
マリエッタは、今度こそ声を立てて笑った。
小説の中で、マリエッタは太い三つ編みをしている設定ですが、イラストではうまく再現できなかったので、三つ編みはしていません。




