第8-1話 第七寮第一班(1)
入学式が終わっても、新入生たちはすぐには寮へ戻れなかった。
中央講堂前の広場で寮ごとに列を作らされ、そのまま学院内の案内へ移る。
第七寮の新入生を案内するのは、三年生の男子学生だった。背が高く、濃紺の制服の襟には三年を示す銀星が三つ並んでいる。
「これから主要施設を案内します。移動中の私語は禁止。列を崩さないこと。質問は各施設の説明後に受け付けます」
一拍置く。
「歩きながら質問しないように」
エリアスは隣にいるヒルデガルドを見る。
彼女もこちらを見た。
何も言わない。
言えない。
列が動き始める。
行政学舎。法務棟。統計・国家分析棟。魔法理論棟。魔法実務棟。中央図書館。医務院。大食堂。演習場。学生会館。
先輩は施設ごとに立ち止まり、簡潔に説明した。
「こちらが中央図書館。一般閲覧区画は学生識別章で入館できます。閉架資料の閲覧には教員の許可が必要です」
説明が終わる。
「質問は?」
数人が手を挙げる。
質問が終わる。
「では移動します」
また私語禁止。
エリアスにとって、これは少し難しい規則だった。
見えるものが多すぎるのに、聞ける時が限られている。
統計・国家分析棟の前では、窓の配置が気になった。魔法実務棟では外壁の厚さ。図書館では搬入口。大食堂では食材搬入用の裏道。
質問したいことはいくつもあったが、説明が終わる頃には、別のことが気になっている。
ヒルデガルドは横で、何度か彼が口を開きかけるたびに視線だけで止めた。
三度目には、エリアスも自分で口を閉じた。
*
案内が終わる頃には、午後の日差しがやわらかくなっていた。
「以上です。明朝から通常日程に入ります。寮へ戻ったら、時間割と携行品を確認してください」
先輩が一礼する。
新入生たちも礼を返した。
「解散」
その瞬間、列のあちこちから一斉に話し声が戻った。
エリアスは小さく息を吐く。
「やっと喋れる」
ヒルデガルドが笑った。
「そんなに辛かった?」
「質問したい時に質問できないの、難しいね」
「規律訓練も兼ねているのでしょう」
「案内で?」
「案内だからよ。決められた時に聞き、決められた時に動く。そういう訓練も必要でしょう」
「僕、軍務へ行くつもりはないけど」
「軍だけの話ではないわ。あなたも服務誓約書を読んだでしょう」
「あれは読んだよ」
「学院案内より先に?」
「署名するものだから」
ヒルデガルドが少し意外そうに見る。
「そういうところは真面目なのね」
「読まずに署名するのは怖いでしょう」
「それはそうね」
二人は第七寮へ続く石畳を歩き始めた。
「統計棟、思ってたより大きかった」
エリアスが言う。
「あなた、そこだけ妙に嬉しそうだったわね」
「三階全部、分析室なのかな」
「図書館より先にそこ?」
「図書館も大きかった」
「感想が全部、建物の大きさなの?」
「地方学院と違いすぎるから」
ヒルデガルドは少し笑った。
その時だった。
どん、と背中を叩かれた。
エリアスが一歩前へよろける。
「うわ」
「いた」
聞き覚えのある声。
振り向くと、ガイウス・レオニスがいた。
相変わらず大きい。
その隣には、見覚えのない少年が立っている。
エリアスより少し背が低い。細身。髪は赤みのある鮮やかな橙色。前髪が少し長く、動くたびに跳ねる。
制服は一応きちんと着ている。ただ、襟元だけがほんの少し緩い。規則違反というほどではないが、本人が意図してそうしていることは分かる。
「探したぞ」
ガイウスが言った。
「僕を?」
「部屋に戻るかと思ったら、女生徒と歩いてるから」
ヒルデガルドが二人を見る。
ガイウスも気づいた。
「昨日話してたアルトハウゼン?」
「そう」
エリアスが答える。
「ヒルデガルド・アルトハウゼンです」
彼女はきちんと名乗った。
ガイウスも姿勢を正す。
「ガイウス・レオニス。エリアスと同室だ。よろしく」
「こちらこそ」
橙髪の少年が軽く手を上げた。
「リオネル・ヴァルカ。同じ第七寮。よろしく」
「エリアス・フェルマー」
エリアスも名乗った。
リオネルが一度、彼の顔を見る。それから細い銀縁の眼鏡へ視線を移した。
「フェルマーって、交易構造分析の?」
「たぶん」
「たぶんって、自分の名前だろ」
「そのフェルマーなら僕だと思う」
リオネルが笑った。
「面白いな、お前」
「まだ何もしてないけど」
「もう十分だよ」
ヒルデガルドが小さく息を吐く。
「そのうち慣れるわ」
「経験者?」
「少しだけ」
「何の?」
「色々」
エリアスだけが首を傾げた。
*
「リオネルとは、今朝寮を出る時に知り合った」
ガイウスが言った。
リオネルが笑う。
「正確には、俺が階段を下りてたら、この大男が朝から妙に爽やかな顔で戻ってきた」
「戻ってきた?」
エリアスが聞く。
「朝の運動」
ガイウスは当然のように答えた。
「起床前に少し走って、身体強化の基礎訓練。それから洗身場」
ヒルデガルドが感心したように見る。
「入学式の日にも?」
「いつもやってるから」
リオネルが肩をすくめた。
「俺なら初日くらい寝るけどね」
「僕は寝た」
エリアスが言った。
「知ってる」
ガイウスが即答した。
「だから部屋を出る前に言っただろ。そろそろ準備した方がいいって」
「ああ」
エリアスがようやく思い出した。
「そういえば、あれがなかったらもう少し寝てたかも」
ヒルデガルドが立ち止まりかける。
「もう少し?」
「遅れなければ、ぎりぎりに着くくらいが一番効率いいと思ってたから」
リオネルが吹き出した。
ガイウスは額を押さえる。
ヒルデガルドは数秒、無言になる。
「どうりで」
「何が?」
「あなたが今日、普通の時間に来ていたから」
「ガイウスのおかげだったみたい」
「人のおかげだったのね」
「うん」
素直に認める。
ガイウスが笑った。
「入学初日くらいは余裕を持って動いた方がいいだろ」
エリアスは少し考える。
「でも一時間前は早すぎない?」
「早くない」
「早いよ」
「早くない」
リオネルが二人を見る。
「昨日からこんな感じ?」
「だいたい」
ガイウスが答えた。
「将来苦労しそうだな」
リオネルがエリアスを見る。
「何が?」
「いや。何でもない」
ヒルデガルドは小さく笑った。
*
四人はそのまま第七寮へ向かった。
歩いているうちに、自然と話題は明日からの授業へ移る。
「最初は共通課程だよな」
ガイウスが言う。
「軍務以外も一通りやれるのは、ちょっと楽しみなんだ」
「軍務志望なの?」
ヒルデガルドが尋ねた。
「今のところは。士官になりたい」
迷いのない答えだった。
「俺は外交か通商かな」
リオネルが言う。
「外国へ出る仕事がいい。王都に十年いるのは、たぶん向いてない」
「十年間、同じ場所にいる義務じゃないよ」
エリアスが言った。
「知ってる。服務先が王国ならいいんだろ」
「そう」
リオネルが横目で見る。
「本当に服務誓約書はちゃんと読んだんだな」
「署名するものだから」
「学院案内は読んでないのに?」
「それとは違うでしょう」
「違うのか」
「違うよ」
ガイウスが笑った。
「エリアスは?」
「行政かな」
「もう決めてるのか?」
「まだ。でも、たぶんそっち」
「たぶんばっかりだな、お前」
リオネルが笑う。
エリアスは少し考えた。
「数字を見て考える仕事がしたい」
「それなら財務か統計でしょう」
ヒルデガルドが言う。
「でも、現場も見たい」
「注文多いな」
リオネルが言った。
「帳簿だけ見てても分からないことがあるから」
その言葉に、ヒルデガルドだけが少し反応した。
第七倉庫で、この少年が何をしていたのか知っている。
数字を見る。
現物を見る。
一致しなければ、その理由を探す。
おそらく本人は、それを特別なことだとは思っていない。
「アルトハウゼンは?」
ガイウスが尋ねた。
「まだ決めていません」
「候補は?」
少しだけ間があった。
「行政か、情報。軍務にも興味はあります」
まだ一つに絞るつもりはなかった。
「まあ、四年あるしな」
ガイウスが言う。
四年。
その言葉で、全員が少し黙った。
ただし、四年後に自由になるわけではない。
卒業すれば、それぞれの任地へ向かう。そこから原則十年、この国のどこかで自分の能力を使って働く。
入学前には全員が知っていたことだった。
それでも十六歳の彼らにとって、十年という時間はまだ遠すぎる。
今は、その前にある四年間の方がずっと大きかった。
[第七寮]




