第26-2話 未成立の契約(2)
その後は、大人たちが質問を引き取った。
整理すると、エルヴァでは双方が条件を決め、署名し、印章を押す。そこで契約は成立する。
神前で行うのは、その契約についての宣誓である。契約に重大な背信を行えば、法的な責任だけでなく、テレシアの加護にも影響し得る。
対してエルセリアでは、人間同士で条件を決め、署名し、印章を押す。そこまでは合意にすぎない。
その合意を神前へ提示し、契約精霊が受理する。
そこで初めて、契約となる。
法務官が腕を組んだ。
「同じ『契約』という言葉を使っていながら、成立時点が違うのか」
外国制度担当教員が言う。
「それだけではありませんね。テレシアそのものの役割も違う」
ナディルが申し訳なさそうな顔をした。
「僕も、こちらが違うなんて知りませんでした」
「君が気にすることではない」
法務官が言った。
「我々も知らなかった」
*
エリアスは契約書へ目を落とした。
末尾。
『テレシアの御前において、双方誠実にこれを契約する』
昨日まで、何の変哲もない定型句に見えた。
今でも、文章そのものは変わらない。
エルヴァ人が読めば、人間同士ですでに成立した契約を神前で宣誓する文章。
エルセリア人が読めば、人間同士で合意した条件を神前へ提示し、契約として成立させる文章。
「同じ文章なのに」
エリアスが言った。
「意味が違う」
ヒルデガルドが頷く。
「外国語より厄介ね」
「うん」
「どうして?」
「外国語なら、分からないって分かるから」
ヒルデガルドは一瞬考えた。
「なるほど」
*
法務官が机を指で二度叩いた。
「これで昨日の会話が噛み合わなかった理由は、おおむね分かった」
全員がそちらを見る。
「だが」
契約書を指す。
「まだ一つも解決していない」
エリアスも気づいた。
そうだ。
エルセリア側が、
まだ契約は成立していない、
と言った理由は分かった。
だが。
なぜ、契約を成立させられなかったのか。
それは別の問題だ。
マリエッタが手を挙げた。
「通商官殿。発言してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「契約精霊が受理しなかった理由そのものは、まだ分かっていないということでしょうか」
「その通りだ」
ナディルが言った。
「契約できない内容が含まれていたのかもしれません」
法務官が見る。
「どういう内容なら拒否される?」
「そこまでは、僕には……」
「そうか」
法務官は頷いた。
「十分だ。助かった」
*
午後。
エルセリア側から追加資料が届いた。
契約精霊の受理条件についての簡易な説明だった。
双方の意思、対象物、対価、履行条件、権限、所有、保証、そして封印。
エリアスが資料の一箇所で止まった。
「法務官殿」
「なんだ」
「この『封印情報との照合』というのは、商品の封印でしょうか」
法務官が資料を受け取る。
そこには、
『対象物に精霊封印が施されている場合、契約内容と封印情報との照合を行う』
とある。
向かいでマリエッタが顔を上げた。
「昨日の魔石箱ではないでしょうか」
法務官がナディルを見る。
まだ部屋に残っていた彼が頷いた。
「高価な魔石なら、ほとんど封印されています」
「契約が成立するとどうなる?」
「封印が契約内容に合わせて変わります」
エリアスが聞く。
「売り手の封印ではなくなる?」
「うん」
「誰が開けられるの?」
「契約で決めた人」
「引渡し前に、買い手が開けることは?」
「できない」
「売り手は?」
「勝手には開けられないよ」
エリアスの目が少し大きくなる。
「売り手なのに?」
「契約した商品だから」
エリアスは考え込んだ。
契約した瞬間、品物そのものが拘束される。
価格が上がっても、売り手は別の相手へ勝手に転売できない。
買い手側も、契約上の義務を果たさなければ品物を取得できない。
遠隔地との将来取引なら、かなり強力な信用補完になる。
「エリアス」
ヒルデガルドが言った。
「何?」
「今、別のこと考えてたでしょう」
「ちょっとだけ」
「何を?」
「この仕組み、遠距離取引には便利だなって」
法務官がこちらを見る。
エリアスは慌てて姿勢を正した。
「失礼しました」
「いや」
法務官は少しだけ笑った。
「私も同じことを考えていた」
*
そこから、契約書と封印条件を一つずつ照合する。
対象は一致。数量も一致。当事者、引渡場所、価格、所有権にも問題はない。
マリエッタが第四条で止まった。
「ここでしょうか」
二人が見る。
品質条項。
『売り手は、封印時に確認された上級魔石としての品質を、引渡時まで保証する』
エリアスが読む。
「普通じゃない?」
「普通だと思います」
マリエッタも答えた。
魔石に限らない。
穀物、布、薬草、酒。
契約したものより悪い品を渡してはならない。
商売では当たり前の話だ。
ヒルデガルドも覗き込む。
「これが駄目なら、エルヴァの商取引はかなり困るでしょうね」
「だよね」
エリアスは次へ進む。
一枚めくる。
止まった。
戻る。
もう一度読む。
『封印時に確認された上級魔石としての品質を、引渡時まで保証する』
「どうしたの?」
ヒルデガルドが聞く。
「いや」
「何か変?」
「分からない」
エリアスは文章を指で追った。
「マリエッタ」
「はい」
「魔石って、保管している間に品質が全く変わらないことってある?」
「全く、ですか?」
「うん」
「普通は少しずつ魔力が抜けます」
「上級魔石でも?」
「もちろんです。ただ、良い封印ならかなり抑えられます」
「どれくらい?」
「種類、産地、封印、気温、保管場所……いろいろです」
「一定じゃない?」
「一定ではありません」
エリアスは契約書を見る。
今回の百二十箱。
一度に引き渡すわけではない。
複数回。
最後の納入は数か月先。
「……そう」
「何です?」
「まだ分からない」
エリアスは答えた。
「だから、もう少し見たい」
*
夕刻。
その日の調査は終了した。
学院へ戻る運河沿いの道。
三人の横を、荷船がゆっくり追い越していく。
マリエッタが言った。
「今日は進みましたね」
「半分」
エリアスが答える。
「半分ですか?」
ヒルデガルドが笑った。
「契約が成立していなかった理由は分かった。でも」
エリアスが続ける。
「成立しなかった理由は分かってない」
「ああ」
マリエッタが頷く。
少し歩いた。
ヒルデガルドがエリアスを見る。
「でも、最初のきっかけは私だったわね」
「何が?」
「テレシアの秤」
「ああ」
「私が変だって言った」
「うん」
「あなたは気にしてなかった」
「うん」
あまりに普通に認めるので、ヒルデガルドの方が拍子抜けした。
「……悔しくないの?」
「何が?」
「私の方が先に気づいたこと」
「実際そうだったでしょう」
「そうだけど」
エリアスは少し考えた。
「僕だけだったら、たぶん契約書ばかり見てた」
「でしょうね」
「だから助かった」
ヒルデガルドが黙る。
「ありがとう」
エリアスは普通に言った。
彼女は少しだけ歩調を速めた。
「……どういたしまして」
「何で先に行くの?」
「何でもない」
後ろを歩くマリエッタは、二人には見えないところで小さく笑った。
*
同じ頃。
通商官庁。
昼間の法務官が、エルセリア側から届いた追加回答を読んでいた。
契約精霊が今回の契約を受理しなかった理由。
エルセリア語の原文。
その下に、通訳官による共通語訳。
法務官の指が止まった。
理由は、たった一行だった。
『履行条件に、確定不能事項を含む』
法務官は眉間に皺を寄せる。
もう一度読む。
「……確定不能事項?」
窓の外では、夕暮れの運河を荷を満載した河船がゆっくりと下っていた。




