第26-1話 未成立の契約(1)
未成立の契約
翌朝。
統学院の一限目が始まる前。
エリアスたちの教室へ、通商官庁の書記官が来た。
「フェルマー生」
「はい」
「アルトハウゼン生」
「はい」
「セラン生」
マリエッタも立つ。
「はい」
「本日の午前課程について、通商官庁より学院へ協力要請が出ています」
教室が少しざわついた。
ミルセティアが頷く。
「三名とも、行ってきなさい」
リオネルが小声で言った。
「昨日の件?」
エリアスも声を落とす。
「たぶん」
「何だったか分かったら教えて」
「話していい内容ならね」
「急に官僚っぽいな」
ガイウスが笑った。
*
通商官庁。
昨日の小礼拝室とは別棟。
三人が通されたのは、大きな会議室だった。
高い窓から午前の光が差し込み、長机の上に積まれた紙束を白く照らしている。
エルヴァ側の文書、エルセリア語原文、その翻訳、商慣習調査、通過・輸送手続き、宗教儀礼、精霊封印に関する報告。
学生三人のほかに、統学院の上級生が六人、通商官庁の官吏が数名、法務院から派遣された法務官、統学院の外国制度担当教員もいた。
「諸君にお願いしたいのは、交渉ではありません」
外国制度担当教員が三人を見る。
「こちらの法務官と通商官の指示に従い、調査を手伝ってください」
三人は一礼した。
エリアスは法務官の前へ。
ヒルデガルドとマリエッタは、通商官たちの前へ。
それぞれ長い机を挟んで座った。
机上には、すでに資料が用意されていた。
契約書の写しだけは、三人の席すべてに置かれている。
それ以外は違った。
エリアスの前には、エルヴァ王国の契約法、過去の商取引、契約成立に関する法務記録。
ヒルデガルドの前には、エルセリア側から事前に提供された文化資料、外交慣例、神前儀礼に関する記録。
マリエッタの前には、魔石の品質基準、輸送・保管方法、封印術式に関する資料。
エリアスが片手を挙げた。
「法務官殿、ご質問してもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「どのような観点から確認すればよいのでしょう。例えば、契約が法的に成立しているかどうか、ですか」
「それも一つだ」
法務官は答えた。
「ただし、今回は相手側の制度を我々が十分理解していない可能性がある」
ヒルデガルドも手を挙げた。
向かいの通商官が視線を向けたが、法務官が顎をしゃくって続けるよう促す。
「先方も、こちらの制度を十分理解していない可能性がありますね」
「そうだろうな」
「では、どちらかが意図的に虚偽を述べているという前提では調べなくてよろしいのでしょうか」
法務官が頷いた。
「その通りだ」
少し間があった。
「それを前提にすると、初日から外交問題になるのでな」
*
作業が始まった。
エリアスは、まず契約書を開いた。
昨日は遠くから表紙を見ただけだった。
本文を読むのは、これが初めてになる。
第一条は譲渡の概要。続いて対象商品、数量、品質、価格、引渡時期、輸送、危険負担、瑕疵、契約違反、不可抗力。
そして末尾。
『テレシアの御前において、双方誠実にこれを契約する』
エリアスはそこまで読むと、最初へ戻った。
もう一度。
今度は条文を飛ばさず、通しで読み返す。
特に変なところは感じない。
地方学院へ入る前、父の店を手伝っていた頃にも、売買や輸送に使う契約書を何度か見たことがある。
もちろん、今回のものほど金額も数量も大きくない。
それでも、構成そのものはエルヴァで使われる標準的な商取引契約と大差なかった。
対象を決める。数量、品質、価格を決める。引渡し、輸送中の責任、不良品、契約違反、天災などで履行できない場合について定める。
順番も。
考え方も。
見慣れている。
だからこそ、どこを疑えばよいのか分からなかった。
*
一刻ほど過ぎた。
法務官が資料から顔を上げた。
「どうだ」
エリアスは姿勢を正した。
「現時点では、明確な問題は見つけられておりません」
「契約成立については?」
「双方代表者の署名、印章、契約権限について確認しました。エルヴァ王国の制度上は、昨日の署名をもって成立しているものと考えます」
「そこまでは法務院も同じ見解だ」
「はい」
つまり、自分の担当からは何も出ていない。
エリアスは再び資料へ目を落とした。
向かいではヒルデガルドが、エルセリアの宗教儀礼について書かれた薄い冊子を読んでいる。
何枚かめくる。
前へ戻る。
別の資料を開く。
また戻る。
やがて手を挙げた。
「通商官殿。一つ確認してもよろしいでしょうか」
「なんだね」
「エルセリア側から提供されている、一般的な契約慣行についての資料は、これですべてでしょうか」
「現時点ではそうだ」
「神前儀礼についても?」
「それ以上は来ていない」
ヒルデガルドは少し考えた。
「ナディル・セファーン生に話を聞くことは可能でしょうか」
通商官の眉が動く。
「留学生の?」
「はい」
「彼は法律の専門家ではないだろう」
「承知しております」
ヒルデガルドは答えた。
「ですから、法律についてではなく、エルセリア人にとっての『当たり前』を聞いてみたいのです」
法務官が顔を上げる。
「当たり前?」
「はい。こちらが制度として調べようとしていることを、先方ではわざわざ文書にしていない可能性があります」
少し間があった。
外国制度担当教員が頷いた。
「聞いてみる価値はあるでしょう」
*
昼前。
ナディルが呼ばれた。
会議室へ入ってきた彼は、大人の数を見て明らかに緊張した。
「ナディル・セファーン生です」
一礼する。
法務官が椅子を示した。
「座ってくれ」
「失礼します」
「難しいことを聞くつもりはない。君の国で、普通の人間が契約をどう考えているのか知りたい」
「はい」
「昨日の魔石取引については?」
「使節団が大きな取引を進めていることは知っています」
「双方が契約書へ署名した」
「はい」
「印章も押した」
「はい」
「その後の神前確認で、契約精霊に受理されなかった」
ナディルの表情が変わった。
「受理されなかったんですか?」
法務官が一瞬、ヒルデガルドを見る。
それからナディルへ視線を戻した。
「そうだ」
「では、契約はまだですね」
今度は。
部屋の空気が止まった。
「まだ?」
「はい」
ナディルは周囲を見た。
誰も当然という顔をしていない。
そのことに気づき、逆に彼が戸惑った。
「……違うんですか?」
*
法務官が質問を続けた。
「署名は何を意味する」
「条件に合意したということです」
「印章は?」
「その合意が正式なものだと示します」
「それでも契約ではない?」
「はい」
「では、何をもって契約となる」
ナディルは少し考えた。
「神前で受理された時です」
エリアスが手を挙げる。
法務官が視線を向けた。
「発言してもよろしいでしょうか」
「いい」
エリアスはナディルを見る。
「じゃあ、昨日の署名のあと、エルセリア側がやっぱり売りたくないと言ったら?」
「理由によると思う」
「価格が上がったから、とか」
「信用は失うよ」
「でも、契約違反?」
「まだ契約じゃないから、それとは違う」
「神罰は?」
「契約を破ったことに対する神罰なら、ないと思う」
エリアスは黙った。
自分が知っているものとは、かなり違う。
「もう一ついい?」
「うん」
「昨日、神前で何をしようとしていたの?」
ナディルは首を傾げた。
「契約を通してもらうんだろ?」
エリアスの目が止まった。
「通してもらう?」
「うん」
「誰に?」
「テレシア様に」
ヒルデガルドが、ゆっくり顔を上げた。
*
「ナディル」
「何?」
「この前、食堂で話したことを覚えてる?」
「食堂?」
「テレシアの秤」
「ああ」
ヒルデガルドは少し考えた。
「あなたたちのテレシアは、契約ができたあとに、それを見届けるだけの神ではないの?」
「見届ける?」
「約束が守られているかを見る、という意味」
「ああ」
ナディルは頷きかけ、止まった。
「それもするけど」
「それも?」
「まず、契約として受け取ってもらわないと」
ヒルデガルドは黙った。
少し前。
食堂で、果実水をこぼしたナディルが口にした言葉。
――テレシアの秤が傾いた。
あの時は、ただ、同じ名前の神なのに妙な使い方をすると思っただけだった。
「……異なる秤」
彼女が小さく呟いた。
エリアスが見る。
「何?」
「前に言ったでしょう」
「ああ」
そこで、エリアスも気づいた。




