第25-2話 同じ神の名(2)
五日目。
大きな合意がまとまった。
エルセリア王国の大商会が、アルヴァリスの商人組合へ高品質魔石を定期供給する。
初回は百二十箱。
その後は季節ごとに数量を調整する。
価格、品質基準、輸送費、ノルディス通過時の費用負担、引渡場所。
すべて決まった。
学生たちは壁際に控えていた。
中央には双方の代表。机上には二通の書面が並んでいる。
一通はエルヴァ王国の公用共通語。
もう一通はエルセリア語。
学生の位置から本文までは読めない。
ただ、表紙に大きく記された名称だけは見えた。
『エルヴァ王国アルヴァリス商人組合及びエルセリア王国アズラード交易商会間 上級魔石継続供給契約書』
その下には、両当事者の正式名称が並んでいる。
第一契約当事者。
エルヴァ王国アルヴァリス商人組合。
第二契約当事者。
エルセリア王国勅許アズラード交易商会。
通訳官と法務官が最後の照合を終える。
エルヴァ側の商人代表が署名した。
印章。
エルセリア側も署名する。
印章。
そして最後に、双方が立ち上がった。
「テレシアの御前において、双方誠実にこれを契約する」
握手。
拍手が起こった。
エリアスも手を叩く。
隣のヒルデガルドも。
長かった交渉が終わった。
少なくとも、エルヴァ側はそう理解していた。
*
翌朝。
神前確認の儀礼が行われた。
エルヴァ側の理解では、すでに成立した契約をテレシアへ奉告し、双方がその履行を改めて誓うための儀礼である。
会場はアルヴァリスの通商官庁内に設けられた小礼拝室。
昨日より人数は少ない。
双方代表、法務官、通商官、エルセリア側の神前契約官、そして記録補助として学生が数名。
エリアスとヒルデガルドもいた。
中央の台には、昨日署名された契約書が置かれている。
その横には、エルセリアから運ばれた魔石箱の一つ。
白衣の神前契約官が手をかざした。
箱の表面に、細い銀色の線が走る。
エリアスは少し身を乗り出した。
見たことのない封印だった。
契約官がテレシアの名を呼ぶ。
短い祈り。
契約書へ手を置く。
銀色の線が淡く光った。
そして、消えた。
契約官の眉が動く。
もう一度。
祈る。
光。
消える。
今度は、周囲のエルセリア人も顔を見合わせた。
エルヴァ側の商人代表が尋ねる。
「何か問題でも?」
契約官は答えない。
契約書を確認し、隣のエルセリア人と短く言葉を交わす。
三度目。
同じだった。
光は途中まで走り、消える。
静寂。
やがて契約官が顔を上げた。
「申し訳ありません」
「何でしょう」
「受理されません」
商人代表が首を傾げた。
「何が?」
契約官は、ごく普通のことを説明するように答えた。
「契約です」
沈黙。
「……契約?」
「はい」
エルヴァ側の法務官が口を開く。
「契約であれば、昨日、双方の署名と印章をもって成立しています」
今度は、エルセリア側が沈黙した。
契約官が法務官を見る。
明らかに困惑している。
「いいえ。まだ成立しておりません」
空気が変わった。
「昨日は双方が署名した」
「はい」
「両当事者の代表が、契約書への同意も確認した」
「はい」
「では、契約は成立しているでしょう」
契約官はますます困った顔になった。
「なぜです?」
今度は、エルヴァ側が黙った。
エリアスは壁際で、そのやり取りを聞いていた。
意味が分からなかった。
昨日、交渉はまとまった。
双方が署名した。
印章も押した。
皆が拍手した。
なのに今日になって、片方は契約が成立したと言い、もう片方はまだ成立していないと言っている。
しかも。
どちらも、自分が当然のことを説明しているような顔をしていた。
それが一番奇妙だった。
【挿絵 受理されない神前契約】
*
結局、その場で話はまとまらなかった。
エルセリア側の神前契約官は、自分たちだけで原因を確認したいと申し出た。エルヴァ側の法務官も、これ以上その場で議論することを避けた。
初めての正式通商交渉である。
不用意な言葉一つで、契約上の問題が外交上の問題になりかねない。
「本日の神前確認は、ここまでとします」
エルヴァ側の責任者が告げた。
「双方、改めて事実関係を確認した上で、協議を再開するものとします」
エルセリア側代表が礼をする。
エルヴァ側も返す。
表面上は穏やかだった。
誰も声を荒らげない。
誰も相手を非難しない。
だが、昨日まであった交渉妥結後の明るい空気は、完全に消えていた。
*
学生たちにも退室が命じられた。
エリアスはヒルデガルドと並んで廊下へ出る。
後ろで扉が閉まった。
「何だったんだろう」
エリアスが言った。
「分からない」
ヒルデガルドも珍しく即答した。
「魔法が失敗しただけじゃないの?」
「でも、あの契約官は『魔法が失敗した』とは言わなかった」
「うん」
「『契約が受理されない』って言った」
エリアスは少し考えた。
だが、材料がない。
学生は交渉の周辺実務を補助していただけだ。契約書そのものの作成や法的精査には参加していない。
昨日、遠くから署名されるところを見ただけだった。
「考えても分からないね」
エリアスが言う。
ヒルデガルドが横を見る。
「珍しく諦めるのね」
「諦めてないよ」
「じゃあ?」
「見てないものは分析できない」
あっさりしていた。
「契約書も読んでないし」
「それはそうね」
「大人の人たちが調べるでしょう」
「たぶんね」
二人は歩き始めた。
廊下の窓から、朝のアルヴァリスが見える。
馬車。
運河。
商館。
いつも通りの王都。
ただ。
通商官庁の小礼拝室では、昨日成立したはずの大きな契約が、今日になって成立していないことになっていた。
エリアスはまだ知らない。
その理由を探すため、翌日。
自分たちにも初めて、あの契約書を読む機会が与えられることを。




