第25-1話 同じ神の名(1)
「テレシアの秤が傾いた!」
食堂に、聞き慣れない声が響いた。
エリアスが顔を上げると、三つ向こうの卓で少年が立ち上がっていた。その足元には木杯が転がり、淡い色の果実水が床へ広がって椅子の脚を濡らしている。
「あー……やってしまった」
少年は困った顔で床を見る。
どうやら、大事件ではないらしい。
エリアスは保存魚へ視線を戻した。
今日のものは、特に塩辛い。
隣では、ヒルデガルドがまだ少年を見ていた。
「どうしたの?」
「今の」
「今の?」
「テレシアの秤」
エリアスは魚の骨を外す。
「何か変?」
「変でしょう」
「そう?」
「テレシアの秤が傾くのよ?」
「傾いたんじゃない?」
「そういう意味じゃないの」
ヒルデガルドが呆れた顔をする。
向かいでリオネルが笑った。
「エリアス。お前、たまにわざとやってないか?」
「何を?」
「いや。何でもない」
果実水をこぼした少年は、統学院へ来ている外国人留学生だった。
ナディル・セファーン。
エルセリア王国から半年前に来た、統学院最初のエルセリア人留学生である。
濃い褐色の髪。少し日に焼けた肌。制服そのものは他の学生と同じだが、首元には故国の習慣らしい細い青紐を結んでいる。
床を拭き終えたナディルが席へ戻ろうとしたところで、ヒルデガルドが声をかけた。
「ナディル」
「はい?」
「今の言葉、エルセリアではよく使うの?」
「今の?」
「『テレシアの秤が傾いた』って」
ナディルはきょとんとした。
「使いますよ」
「どんな時?」
「今みたいな時です」
「飲み物をこぼした時?」
「そうです」
「……それだけで?」
「それだけ?」
今度はナディルの方が不思議そうな顔をする。
「失敗した時とか、予定が狂った時とか。財布を忘れた時なんかにも言います」
リオネルが吹き出した。
「ずいぶん気軽に秤が傾く国だな」
「こちらでは言わないんですか?」
「言わないわ」
ヒルデガルドが答えた。
「少なくとも、果実水をこぼしたくらいでは」
「じゃあ、いつ使うんです?」
彼女は少し考えた。
「裁定を受ける時とか、重大な約束を破った人に対してとか」
「……そんなに重い言葉なんですか?」
「かなり」
ナディルは感心したように頷いた。
「同じテレシア様なのに」
ヒルデガルドが少し首を傾げる。
「変ね」
「何がです?」
「テレシアは、国によって違う秤を持っているのかしら」
ナディルは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「神様ですから、いくつか持っていても不思議ではないですね」
「それもそうね」
軽い冗談のように会話は終わった。
エリアスも、それ以上は考えなかった。
その時は。
*
エルセリア王国は遠い。
エルヴァ王国を貫く大河を下り、ノルディス河口王国へ入る。そこから海へ出て沿岸を南へ進み、二つの国の港を経由して、狭い海峡を越えた先にある。
地図の上なら、指一本ほどの距離。
実際に行けば、季節によっては何十日もかかる。
エルセリアの商品そのものは、以前からアルヴァリスにも入っていた。
青い染料、香辛料、細工物、そして質の良い魔石。
ただし、それを運んでくるのは、ほとんどの場合エルセリア人ではない。
途中の国の商人が買い、別の船へ積み替え、さらに別の商人へ売る。ノルディスの港で河船へ載せ替えられて、ようやくエルヴァ国内へ入ってくる。
アルヴァリスの商人が知っているのは、エルセリアの商品だった。
エルセリア人との商売ではない。
ナディルが統学院へ来たこと自体、両国関係の変化を示す出来事の一つだった。
そして今年。
初めて、エルセリア国王の親書を携えた正式な通商使節団が、エルヴァ王国を訪れることになった。
*
「ということで、皆さんにも手伝ってもらいます」
ミルセティアの言葉に、教室がざわついた。
「静かに」
すぐに収まる。
筆記板には、
『エルセリア王国通商使節団』
と書かれていた。
「今回の訪問は、親善だけを目的としたものではありません。エルヴァ王国政府との政府間協議、ノルディスを含む航路上の取り決め、そして民間通商についての協議が行われます」
ミルセティアは学生たちを見る。
「統学院からも上級生を中心に補助要員が出ます。一年次からは十二名」
名前が読み上げられた。
ヒルデガルド、エリアス、マリエッタ、ほか九名。
ガイウスが小声で言った。
「俺はいないな」
「俺も」
リオネルが続ける。
「俺を外交の席に置かない判断は正しい」
「自覚あるんだ」
「あるよ」
ミルセティアがこちらを見る。
二人とも黙った。
「皆さん一年次生に外交交渉を任せるわけではありません。議事記録、資料整理、過去資料との照合、物品目録の確認、必要に応じた各官庁との連絡、そして上級生の補助です」
そこで一度区切る。
「ただし、見ること。聞くこと。そして、考えること」
筆記板を軽く叩いた。
「外国について学ぶ機会は、教本の中だけにあるわけではありません」
*
使節団がアルヴァリスへ入った日は、学院からもその行列が見えた。
外国旗を掲げた騎馬の護衛、幌付きの馬車、魔石灯を掲げた荷車。
先頭にはエルヴァ王国政府の迎賓官。その後ろを、見慣れない衣装の人々が続いている。
エルセリアの正装は、エルヴァのものより丈が長かった。上衣は膝近くまであり、腰を細い帯で締めている。
色も鮮やかだった。
濃紺、赤褐色、深い緑。
その一方で、装飾品は意外なほど少ない。
ヒルデガルドによれば、公的な場では身分そのものより、役割を衣服の色や帯で示す文化らしい。
「じゃあ、あの青い帯は?」
エリアスが聞く。
「通商官」
「赤は?」
「外交官」
「白は?」
「神前契約官だと思う」
「詳しいね」
「事前資料を読んだから」
「僕も読んだよ」
「あなたは品目表ばかり見てたでしょう」
「面白かったから」
「だからよ」
使節団が正門の向こうへ消えていく。
エリアスは最後尾の荷車を見ていた。
荷台には頑丈な箱が積まれ、その縁には細かな紋様が刻まれている。
封印術式らしい。
エルヴァでは見慣れない形式だった。
*
交渉は四日続いた。
学生にとっては、華やかさなどほとんどなかった。
資料。
資料。
また資料。
「昨日の魔石輸入量、どこ?」
「右から三つ目」
「これは?」
「五年前」
「何で五年前がそこにあるの?」
「比較用」
「混ぜないでよ」
「札ついてるでしょう」
「あなたには分かっても、他人には分からないの」
エリアスとヒルデガルドは小声で言い合いながら、書類を仕分けた。
隣室では、大人たちが協議を続けている。
直接聞こえてくるのは断片だけだった。
価格、数量、輸送、通過税、品質、引渡時期。
時折、使いが来る。
「過去十年の上級魔石平均輸入価格を」
エリアスが探す。
「三年前のノルディス通過協定を」
ヒルデガルドが出す。
学生の仕事は、それだけだった。
契約書そのものの作成や法的確認は、通商を担当する官吏と双方の実務者が行う。
学生たちが目にするのは、その周囲を流れる大量の資料だけだった。
だが、その「それだけ」の向こうで、エルヴァ王国とエルセリア王国は、初めて直接の通商制度を作ろうとしていた。




