↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王国を読む者たち I - 統学院の五人  作者: なみみか
遠国の約束

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/75

第25-1話 同じ神の名(1)

「テレシアの秤が傾いた!」


食堂に、聞き慣れない声が響いた。


エリアスが顔を上げると、三つ向こうの卓で少年が立ち上がっていた。その足元には木杯が転がり、淡い色の果実水が床へ広がって椅子の脚を濡らしている。


「あー……やってしまった」


少年は困った顔で床を見る。


どうやら、大事件ではないらしい。


エリアスは保存魚へ視線を戻した。


今日のものは、特に塩辛い。


隣では、ヒルデガルドがまだ少年を見ていた。


「どうしたの?」


「今の」


「今の?」


「テレシアの秤」


エリアスは魚の骨を外す。


「何か変?」


「変でしょう」


「そう?」


「テレシアの秤が傾くのよ?」


「傾いたんじゃない?」


「そういう意味じゃないの」


ヒルデガルドが呆れた顔をする。


向かいでリオネルが笑った。


「エリアス。お前、たまにわざとやってないか?」


「何を?」


「いや。何でもない」


果実水をこぼした少年は、統学院へ来ている外国人留学生だった。


ナディル・セファーン。


エルセリア王国から半年前に来た、統学院最初のエルセリア人留学生である。


濃い褐色の髪。少し日に焼けた肌。制服そのものは他の学生と同じだが、首元には故国の習慣らしい細い青紐を結んでいる。


床を拭き終えたナディルが席へ戻ろうとしたところで、ヒルデガルドが声をかけた。


「ナディル」


「はい?」


「今の言葉、エルセリアではよく使うの?」


「今の?」


「『テレシアの秤が傾いた』って」


ナディルはきょとんとした。


「使いますよ」


「どんな時?」


「今みたいな時です」


「飲み物をこぼした時?」


「そうです」


「……それだけで?」


「それだけ?」


今度はナディルの方が不思議そうな顔をする。


「失敗した時とか、予定が狂った時とか。財布を忘れた時なんかにも言います」


リオネルが吹き出した。


「ずいぶん気軽に秤が傾く国だな」


「こちらでは言わないんですか?」


「言わないわ」


ヒルデガルドが答えた。


「少なくとも、果実水をこぼしたくらいでは」


「じゃあ、いつ使うんです?」


彼女は少し考えた。


「裁定を受ける時とか、重大な約束を破った人に対してとか」


「……そんなに重い言葉なんですか?」


「かなり」


ナディルは感心したように頷いた。


「同じテレシア様なのに」


ヒルデガルドが少し首を傾げる。


「変ね」


「何がです?」


「テレシアは、国によって違う秤を持っているのかしら」


ナディルは一瞬きょとんとして、それから笑った。


「神様ですから、いくつか持っていても不思議ではないですね」


「それもそうね」


軽い冗談のように会話は終わった。


エリアスも、それ以上は考えなかった。


その時は。


挿絵(By みてみん)


     *


エルセリア王国は遠い。


エルヴァ王国を貫く大河を下り、ノルディス河口王国へ入る。そこから海へ出て沿岸を南へ進み、二つの国の港を経由して、狭い海峡を越えた先にある。


地図の上なら、指一本ほどの距離。


実際に行けば、季節によっては何十日もかかる。


エルセリアの商品そのものは、以前からアルヴァリスにも入っていた。


青い染料、香辛料、細工物、そして質の良い魔石。


ただし、それを運んでくるのは、ほとんどの場合エルセリア人ではない。


途中の国の商人が買い、別の船へ積み替え、さらに別の商人へ売る。ノルディスの港で河船へ載せ替えられて、ようやくエルヴァ国内へ入ってくる。


アルヴァリスの商人が知っているのは、エルセリアの商品だった。


エルセリア人との商売ではない。


ナディルが統学院へ来たこと自体、両国関係の変化を示す出来事の一つだった。


そして今年。


初めて、エルセリア国王の親書を携えた正式な通商使節団が、エルヴァ王国を訪れることになった。


     *


「ということで、皆さんにも手伝ってもらいます」


ミルセティアの言葉に、教室がざわついた。


「静かに」


すぐに収まる。


筆記板には、


『エルセリア王国通商使節団』


と書かれていた。


「今回の訪問は、親善だけを目的としたものではありません。エルヴァ王国政府との政府間協議、ノルディスを含む航路上の取り決め、そして民間通商についての協議が行われます」


ミルセティアは学生たちを見る。


「統学院からも上級生を中心に補助要員が出ます。一年次からは十二名」


名前が読み上げられた。


ヒルデガルド、エリアス、マリエッタ、ほか九名。


ガイウスが小声で言った。


「俺はいないな」


「俺も」


リオネルが続ける。


「俺を外交の席に置かない判断は正しい」


「自覚あるんだ」


「あるよ」


ミルセティアがこちらを見る。


二人とも黙った。


「皆さん一年次生に外交交渉を任せるわけではありません。議事記録、資料整理、過去資料との照合、物品目録の確認、必要に応じた各官庁との連絡、そして上級生の補助です」


そこで一度区切る。


「ただし、見ること。聞くこと。そして、考えること」


筆記板を軽く叩いた。


「外国について学ぶ機会は、教本の中だけにあるわけではありません」


     *


使節団がアルヴァリスへ入った日は、学院からもその行列が見えた。


外国旗を掲げた騎馬の護衛、幌付きの馬車、魔石灯を掲げた荷車。


先頭にはエルヴァ王国政府の迎賓官。その後ろを、見慣れない衣装の人々が続いている。


エルセリアの正装は、エルヴァのものより丈が長かった。上衣は膝近くまであり、腰を細い帯で締めている。


色も鮮やかだった。


濃紺、赤褐色、深い緑。


その一方で、装飾品は意外なほど少ない。


ヒルデガルドによれば、公的な場では身分そのものより、役割を衣服の色や帯で示す文化らしい。


「じゃあ、あの青い帯は?」


エリアスが聞く。


「通商官」


「赤は?」


「外交官」


「白は?」


「神前契約官だと思う」


「詳しいね」


「事前資料を読んだから」


「僕も読んだよ」


「あなたは品目表ばかり見てたでしょう」


「面白かったから」


「だからよ」


使節団が正門の向こうへ消えていく。


エリアスは最後尾の荷車を見ていた。


荷台には頑丈な箱が積まれ、その縁には細かな紋様が刻まれている。


封印術式らしい。


エルヴァでは見慣れない形式だった。


挿絵(By みてみん)


     *


交渉は四日続いた。


学生にとっては、華やかさなどほとんどなかった。


資料。


資料。


また資料。


「昨日の魔石輸入量、どこ?」


「右から三つ目」


「これは?」


「五年前」


「何で五年前がそこにあるの?」


「比較用」


「混ぜないでよ」


「札ついてるでしょう」


「あなたには分かっても、他人には分からないの」


エリアスとヒルデガルドは小声で言い合いながら、書類を仕分けた。


隣室では、大人たちが協議を続けている。


直接聞こえてくるのは断片だけだった。


価格、数量、輸送、通過税、品質、引渡時期。


時折、使いが来る。


「過去十年の上級魔石平均輸入価格を」


エリアスが探す。


「三年前のノルディス通過協定を」


ヒルデガルドが出す。


学生の仕事は、それだけだった。


契約書そのものの作成や法的確認は、通商を担当する官吏と双方の実務者が行う。


学生たちが目にするのは、その周囲を流れる大量の資料だけだった。


だが、その「それだけ」の向こうで、エルヴァ王国とエルセリア王国は、初めて直接の通商制度を作ろうとしていた。


 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。