第24話 (オマケ) 休日の街歩き
夕食の保存魚は、いつも通り不味かった。
エリアスは二口目をどうにか飲み込み、水を飲んだ。向かいでは、ガイウスが特に気にした様子もなく食べている。
「よく平気だね」
「腹に入れば同じだろ」
「味が違う」
「そこは違うな」
横からリオネルが口を挟んだ。
「そういえばさ。今度の休み、外出する?」
「たぶん図書館」
「また?」
「またって?」
リオネルの手が止まった。
「お前、前の休みも王立図書館だっただろ」
「うん」
「その前は?」
「図書館」
「さらに前」
エリアスは少し考えた。
「……図書館かな」
沈黙。
マリエッタが尋ねた。
「王都の他の場所には行ってないんですか?」
「行ってるよ」
リオネルが少し安心した。
「どこ?」
「学院から図書館までの道」
「それは移動だ」
ヒルデガルドが額に手を当てた。
「まさか、入学してから王都をまともに見て回ったことがないの?」
「見て回る?」
「街を見たり、店に入ったり、名所へ行ったり」
エリアスは考えた。
「してないと思う」
「俺でも何回か街に出たぞ」
ガイウスが言う。
「ガイウスは何しに?」
「市場。あと武具店。大神殿前の広場も見た」
「私は農産市場と植物園に行きました」
マリエッタが続ける。
「俺はだいたい色々」
リオネルが答えた。
「色々って?」
「色々は色々だよ」
「怪しい」
「お前に言われたくない」
ヒルデガルドはエリアスを見る。
「どうして行かないの?」
「時間ないし」
エリアスはパンをちぎった。
「お金もあまりないし」
「見るだけなら、お金はかからないでしょう」
「学院生は王立図書館の閲覧も無料だよ」
「そういう話じゃないの」
また始まった、とでもいうようにリオネルが小さく笑う。
エリアスは気にせず続けた。
「王都の図書館には、地方じゃ読めない本が多いし」
「街そのものも、地方では見られないものが多いわ」
「建物?」
「人も、商売も、習慣も」
「それなら市場はちょっと興味ある」
「ちょっと?」
ヒルデガルドの眉が動いた。少し考えてから、彼女は言った。
「次の休日、空いてる?」
エリアスが顔を上げる。
「たぶん」
「じゃあ、街を案内するわ」
リオネルの動きが止まった。マリエッタも一瞬だけ目を上げる。ガイウスは保存魚を食べ続けていた。
エリアスだけが普通だった。
「いいの?」
「ええ」
「でも、ヒルデガルドの休みが潰れるよ」
「私も街には出るから」
「なら、お願いしようかな」
あっさり。
むしろヒルデガルドの方が少し拍子抜けした。
「……ずいぶん素直ね」
「この前、カルディス教授に、自分が知らないことを自覚するのも大事だって教わったから」
「それと一緒にされるのは、少し嫌なんだけど」
「何で?」
「いい。もう」
リオネルが下を向いて笑っていた。
*
休日の朝。
第七寮の玄関に、エリアスは学院指定の外出略装で現れた。
濃紺の上衣に灰色の脚衣、革靴。胸元には学院章。
統学院生は学院外へ出る際にも指定された略装を着用する。制服そのものではないが、遠目にも統学院生だと分かる服装だった。
学院側の説明は、『学生としての公的責任を自覚させるため』というものだった。
学生の間では、『街で悪さをした時、すぐ学院へ連絡できるようにするため』と言われている。
どちらも、たぶん正しい。
「エリアス」
ヒルデガルドが待っていた。
彼女も外出略装だった。学院規定の濃紺を基調としているが、普段の制服より少し柔らかな仕立てになっている。細身の上衣に白いシャツ、薄い灰色のスカート。靴も、歩きやすい低い革靴だった。
エリアスが彼女を見る。
「何?」
「いつもと違うね」
少し間があった。
「……そう?」
「うん。学院の中より普通の人っぽい」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「今日は、その『たぶん』禁止」
「難しいな」
*
正門を出る。
休日の王都は、平日とは少し違う顔をしていた。通りには果物、香辛料、布、焼き菓子を並べた店が開き、路上には花売りの姿もある。
セルディアの河港商業町で育ったエリアスにとって、市場そのものは珍しくない。ただ、規模が違った。
「人、多い」
「王都だから」
「みんな何してるんだろう」
「買い物でしょう」
「そうじゃなくて」
エリアスは通りの両側を見る。
「この一帯だけで、何人働いてるのかなって」
ヒルデガルドが横を見る。
「街を見に来た最初の感想がそれ?」
「気になる」
「今日は数字にしないで見なさい」
「努力する」
*
最初に入ったのは菓子店だった。
「ここ、有名なの」
ヒルデガルドが言う。
「高そう」
「一つなら平気でしょう」
「値段を見てから決める」
「本当に商人の子ね」
焼いた薄い生地に、蜜と木の実を挟んだ菓子だった。エリアスが一口食べる。
「おいしい」
「でしょう?」
「保存食にできないかな」
「やめなさい」
「何で?」
「美味しいものを見て、すぐ保存食にする発想」
「便利だよ」
「今日は便利を考えない」
二回目だった。
*
市場を抜け、服飾店、魔道具店、文具店、外国商館と回る。
ヒルデガルドは店そのものだけでなく、そこで働く人々についても説明した。
「あの一角は南方から来た商人が多いの」
「服が違う」
「向こうはもっと暑い地域だから」
エリアスが別の店を見る。
「あそこだけ看板が二つの言葉で書いてある」
「外国商人との取引が多い店ね。共通語が得意でない船主や商人も来るから」
エリアスはよく見た。
いつもなら数字を探す。今日は、人の服、話し方、買い物の仕方、店員との距離、通りによって変わる客層。そういうものも見るようにしていた。
ヒルデガルドはそれに気づいていたが、何も言わなかった。
*
問題は、古書店だった。
「十五分だけね」
入る前にヒルデガルドは言った。
「うん」
十五分後。
エリアスは動かなかった。
「エリアス」
返事がない。
「エリアス」
「ちょっと待って」
手には一冊、『旧王国河川運送税制史』。
「これ、旧王国時代の水運税が載ってる」
「そう」
「しかも改訂前」
「そう」
「今の制度との比較が――」
「十五分」
「あと少し」
「もう二十八分」
エリアスが初めて顔を上げた。
「そんなに?」
「そんなに」
「じゃあ買って帰る」
値札を見る。
止まる。
「……高い」
「でしょうね」
エリアスは名残惜しそうに本を棚へ戻した。
数歩進んで、また振り返る。
「まだ見るの?」
「いや」
「顔が見てる」
「本って逃げないよね」
「店が売れば逃げるわ」
エリアスの顔が少し曇った。
ヒルデガルドは吹き出した。
「そんな顔しないで」
「でも」
「次に来た時、まだあったら買えばいいでしょう」
「次?」
「また来れば」
エリアスは少し笑った。
「そうだね」
ヒルデガルドは、自分で口にした「また」という言葉に少しだけ満足した。
*
昼は、小さな茶房へ入った。
二階の窓際。下の通りを馬車が行き交っている。
エリアスは品書きの値段を見ていた。
「飲み物だけでいい?」
「お昼でしょう」
「朝の菓子食べたし」
「それは昼食じゃない」
「パンなら安い」
「私が誘ったんだから、少しくらい――」
「それは駄目」
エリアスが即答した。
ヒルデガルドが止まる。
「何が?」
「お金を出してもらうのは」
「私の家の方が余裕はあるわよ」
「そういう問題じゃない」
今度は、エリアスが言った。
ヒルデガルドは少しだけ笑った。
「分かった」
結局、二人とも自分の分は自分で払った。
*
午後。
最後に向かったのは、王都中央部に残る古い監視塔だった。かつて、大河と市内水路の水位や船の動きを監視するために使われていた塔で、今は役目を終え、一般にも開放されている。
階段。また階段。さらに階段。
「まだ?」
エリアスが言う。
「もう少し」
「女子居住区の三階よりきついんじゃないの」
「入ったこともないでしょう」
「だから想像」
ようやく最上部へ着いた。
外へ出ると、風が吹きつけ、視界が一気に開いた。
エリアスは何も言わなかった。
眼下には、王都アルヴァリスが広がっている。
王宮。商業区。倉庫街。学院の建物群。大河。そこへ流れ込む主要支流。市内へ引き込まれた水路。幾つもの橋。何十もの河船。
さらに遠くには、王都圏の農地が霞んでいる。
「……すごい」
ヒルデガルドが横へ立つ。
「でしょう?」
エリアスは欄干へ近づいた。
「川が全部見える」
「そこから?」
「だって」
エリアスが指を差す。
「あっちから入って、あそこで支流と合流してる。その水路、学院の近くまで来てたんだ」
「今初めて気づいたの?」
「地図では知ってた」
「見るのとは違うでしょう」
エリアスはしばらく景色を眺めた。
「うん」
珍しく、それだけだった。
*
夕方。
陽が傾き、王都の屋根が橙色に染まり始めた。
ヒルデガルドは隣にいるエリアスの横顔を見る。
今日は結構楽しかった。エリアスも楽しんでいるように見える。
なら、少しくらい。
「ねえ」
「何?」
「今日……私じゃなくても、同じくらい楽しかった?」
エリアスが振り向いた。
「?」
「例えば、ガイウスとか、リオネルとか」
これくらいなら分かるだろう。
エリアスは本気で考えた。
「ガイウスなら、武具店が増えそう」
「……そうね」
「リオネルなら、途中でどこか行きそう」
「うん」
「マリエッタなら、市場で農産物を見て止まりそう」
「そうでしょうね」
少し考える。
「ヒルデガルドで良かったと思うよ」
彼女の表情が少し明るくなった。
「そう?」
「王都に詳しいし」
落ちた。
「……そこ?」
「あと」
エリアスが続ける。
「僕が知らないことを、ちゃんと教えてくれるから」
少しだけ、また上がる。
「カルディス教授の時もそうだったし」
また落ちた。
ヒルデガルドは空を見た。
「本当にあなたは……」
「何?」
「何でもない」
*
塔を下りる頃には、空はもう薄紫色だった。
学院へ戻る道では、魔石灯が一つずつ灯り始めている。
「今日はありがとう」
エリアスが言った。
「どういたしまして」
「古書店はごめん」
「本当に」
「今度は十五分で出る」
「信用しない」
「努力する」
少し歩いたところで、エリアスが前を向いたまま言った。
「でも」
「何?」
「統学院に来て良かったなって思う」
ヒルデガルドが見る。
「急ね」
「セルディアにいたままだったら、ガイウスにも、リオネルにも、マリエッタにも会ってないでしょう」
一拍置く。
「ヒルデガルドとも、その後はたぶん会ってない」
「監査実習では会ったけどね」
「うん。でも、あれだけだったと思う」
「……まあね」
「だから」
エリアスは笑った。
「みんなが同期で良かった」
ヒルデガルドは黙った。
彼にとっては、たぶん純粋な友情の言葉だった。だから少し不満だった。でも同時に、かなり嬉しかった。
「そう」
それだけ答える。
「私も」
少し間を置いてから続けた。
「エリアスが同期で良かったわ」
エリアスが笑った。
「ありがとう」
そして、本当にそれで満足した顔をする。
ヒルデガルドは小さくため息をついた。
「……まあ、今日はこれでいいか」
「何が?」
「何でもない」
二人は並んで、学院の灯りへ向かって歩いていった。




