第23話 最初の省略
二十七年前。
アステリア地方南東部では、三日間雨が降り続いていた。
雨、と呼ぶには重すぎる。
空そのものが水になって落ちてくるような雨だった。
大河下流域の河川都市リシュナ。
中央排水所の窓から、若いカルディス魔道官は川を見ていた。
川面が、昨日より明らかに高い。対岸へ降りる石段は、もう半分以上見えない。
「第二排水路、逆流始まりました!」
後ろから声が飛ぶ。
「水門は?」
「閉鎖中です!」
「南区の避難は?」
「六割!」
カルディスは振り向いた。
二十四歳。
魔道官としては若い。それでも、この排水施設では副責任者だった。
術式理論。
実務。
魔力量。
どれも優秀。
地方勤務三年目。現場経験も、もう新人とは呼ばれない程度にはある。
机上には、排水魔導施設の術式起動手順書が置かれていた。
厚い。
水系主神への奉告。起動前礼式。十二箇所の安全確認。術者配置。魔石負荷確認。同調。起動。
通常なら、準備開始から実働まで十八分。
今日。
十八分は長すぎた。
*
「東堤の観測値!」
「警戒線まで、あと十二センチ!」
「上昇速度は?」
「一刻換算で十五から十八!」
室内の空気が変わった。
誰でも計算できる。
猶予は長くない。
主任魔道官は別の排水施設へ出ている。現在、この場で判断できる最上位者はカルディスだった。
年上の術者が聞いた。
「どうする?」
カルディスは手順書を見る。
次に時計。
もう一度、窓の外。
「第一排水陣を先行起動します」
「正式手順では間に合わんぞ」
「短縮します」
部屋が静かになった。
「どこを?」
カルディスは手順書を開いた。
迷ってはいなかった。
「神格奉告を短縮。起動前の定型復唱も一部省略します」
「安全確認は?」
「すべて残します」
「終了礼式は?」
「通常通り」
年長術者が少し考えた。
「規則違反だぞ」
「承知しています」
カルディスは答えた。
「責任は私が取ります」
その言葉を、後になって何度も思い出すことになる。
*
第一班。
四名。
カルディスを含む。
四人が排水魔導陣へ入る。
床には巨大な術式環。中央には主魔石核。その周囲に、水路制御用の補助核が配置されている。
通常なら、全員が所定位置につき、水系主神の名を正式称号で奉告する。
目的。
対象区域。
術式責任者。
起動権限。
それらを順番に読み上げてから、安全確認へ入る。
今日は違った。
カルディスが短く告げる。
「緊急排水。第一陣。安全確認を優先し、奉告礼式を短縮します」
一人ずつ、安全項目を確認する。
主魔石核。
正常。
逆流防止。
正常。
圧力解放。
正常。
補助核。
正常。
カルディスは全員を見る。
「起動」
水の音が変わった。
地下深く、巨大な排水路へ水が引き込まれていく。
窓の外では、溢れかけていた側溝の水位が少しずつ下がり始めた。
誰かが息を吐く。
「動いた」
カルディスも、ほんの少しだけ安心した。
*
第一排水陣。
起動成功。
事故なし。
通常より六分短縮。
その六分が、南区の避難に使われた。
後の事故調査でも、カルディスの最初の判断そのものは、技術的には妥当だったと評価されることになる。
だからこそ。
問題は難しかった。
*
第二排水陣。
別班。
第一班から十分後。
責任者は、カルディスより二歳若い魔道官だった。
「第一が手順を短縮したらしい」
誰かが言った。
「問題なかったんだろ?」
「ない」
「こっちもやる?」
若い責任者は迷った。
カルディスを知っていた。
優秀な先輩。
判断も速い。
現場経験も自分より上。
そのカルディスが省略した。
なら。
「神格奉告は省こう」
そこまでは同じだった。
そして。
「主核の二次同調確認も、一回でいい」
別の術者が顔を上げる。
「二回確認が規定だぞ」
「第一陣が動いた分、こっちの水圧は低い」
「でも」
「時間がない」
正しい。
少なくとも、その場ではそう聞こえた。
二次同調確認は通常二回。
一度でも数値上は十分なことが多い。
しかも第一排水陣が稼働を始めたことで、第二陣への負荷は想定より小さくなっていた。
「やろう」
第二班は、別の一つを削った。
*
その頃、カルディスは制御室へ戻っていた。
第二班から送られた起動記録を見る。
「二次同調、一回?」
声が止まる。
若い魔道官が答えた。
「許容値内です」
「規定は二回だ」
「第一班も短縮したでしょう」
その言葉が、カルディスの口を止めた。
違う。
自分が省略したものと、彼が省略したものは違う。
自分は術式安全性そのものには影響しない礼式を短縮した。
彼は安全確認の一部を削ろうとしている。
そう言えばよかった。
だが、頭の中に別の声が出た。
――二次同調は、一回でも数値上問題ない。
事実だった。
――今は緊急時だ。
それも事実だった。
――自分も規定手順を変更した。
それも事実だった。
数秒。
その数秒で、カルディスは言うべき言葉を失った。
「……異常値が出たら、即時停止しろ」
結局、それだけを言った。
*
第三排水陣で問題が起きたのは、さらに二十分後だった。
第三班は、第一班と第二班の運用記録を見ていた。
緊急時。
規定手順は短縮できる。
すでに、そういう空気になっていた。
第三陣には微弱な位相差が出ていた。
許容限界以下。
通常手順なら、報告、再同調、再測定。
数分かかる。
「報告する?」
若い術者が聞いた。
責任者は数値を見る。
許容範囲内。
第一陣も第二陣も、予定より早く動いた。
都市は浸水寸前。
「この程度なら行ける」
「記録には?」
少し迷う。
「起動後に書く」
この判断も、それだけを切り取れば、直ちに異常とは言い切れなかった。
*
第三排水陣。
起動。
最初の十五秒。
正常。
三十秒。
正常。
四十二秒。
一つの補助核が赤く光った。
「位相差拡大!」
「停止!」
遅かった。
主核と補助核の間で魔力が反射した。
光。
音。
カルディスが覚えているのは、そこまでだった。
*
目を覚ました時、身体の右側がひどく熱かった。
耳鳴り。
煙。
床。
何かが燃えている匂い。
「……停止……」
声がうまく出ない。
身体を起こす。
右手。
皮膚が焼けている。
視界の端には術者が倒れていた。
一人。
二人。
誰かが叫んでいる。
地下から水が上がってくる。
第三排水陣が損壊したことで、排水先の一部から逆流が始まっていた。
「第一を……落とせ!」
カルディスは叫んだ。
誰かが聞き返す。
「何?」
「全排水陣、停止!」
「でも街が!」
「止めろ!」
今度は迷わなかった。
*
雨は翌朝には弱まった。
堤防は持った。
南区の一部が浸水した。
住民二十三名負傷。
魔道官四名死亡。
七名重傷。
中央排水施設、大破。
*
事故調査は半年続いた。
第三排水陣に生じた位相差。
補助核の構造疲労。
異常報告の遅れ。
再同調の省略。
複数の要因が重なっていた。
そして、その背後にあったもの。
手順変更が連鎖した、組織的要因。
国家魔道事故調査院の調査官がカルディスに尋ねた。
「最初に正式手順を短縮したのは?」
「私です」
「何を省略した?」
「奉告礼式の一部と、定型復唱です」
「安全上の直接的な影響は?」
「ありません」
「今でもそう考える?」
カルディスは答えた。
「はい」
調査官は記録する。
「では、あなたの判断は正しかった?」
若いカルディスは、初めて答えられなかった。
技術的には正しかった。
実際、第一排水陣に事故は起きていない。
六分早く排水を開始し、その六分が避難時間になった。
それでも。
「分かりません」
そう答えた。
*
亡くなった術者の一人は、第二班の若い魔道官だった。
事故そのものは第三排水陣で起きた。
だが、誘発された魔力逆流が第二系統へ走った。
カルディスに、
「第一班も短縮したでしょう」
そう言った男だった。
葬儀の日。
彼の父親から声をかけられた。
責められると思った。
違った。
「息子は、あなたを尊敬していました」
それだけだった。
カルディスは何も答えられなかった。
*
事故から三年後。
カルディスは中央へ戻った。
魔道事故研究。
安全規範。
魔法行使手順。
そして、やがて教育へ進んだ。
学生には必ず正式手順を教えた。
意味が薄いと感じる礼式も。
古臭く見える定型句も。
まず正しく覚えさせる。
なぜなら、優秀な学生ほど「自分なら省略すべき部分を正しく判断できる」と考えやすいことを知っていたからだ。
自分が、そうだった。
*
そして二十七年後。
一人の学生が教室で、あの事故記録を読んだ。
眼鏡をかけた少年。
魔力出力は弱い。
術式理解は高い。
自分の頭で考える。
納得できなければ、教師にまで問い返す。
「最初の省略自体が、事故原因だったとは言えないと思います」
若い日の自分が、そこにいるように見えた。
だからカルディスは、必要以上に怒った。
後になって、そのことも認めざるを得なかった。
*
現在。
研究室。
エリアスが帰った後。
カルディスは一人で、古い事故記録を開いていた。
第一班。
自分の名。
その下には、第二班を率いた若い魔道官の名前もある。
指でなぞる。
窓の外から、学生たちの声が聞こえてきた。
十五歳。
十六歳。
自分たちが、まだ何に失敗するのかも知らない年齢。
カルディスは記録簿を閉じた。
そして、小さく呟いた。
「……正しいだけでは、足りないんですよ」
少し考える。
その日の五柱戦を思い出す。
最後まで正式な終了手順を守り、その結果、自分で残した一本の待機線を見つけた少年。
カルディスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「もっとも」
誰もいない部屋で続ける。
「正しくないよりは、ずっといいですが」




