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王国を読む者たち I - 統学院の五人  作者: なみみか
捨ててはならぬもの

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33/73

第23話 最初の省略

二十七年前。


アステリア地方南東部では、三日間雨が降り続いていた。


雨、と呼ぶには重すぎる。


空そのものが水になって落ちてくるような雨だった。


大河下流域の河川都市リシュナ。


中央排水所の窓から、若いカルディス魔道官は川を見ていた。


川面が、昨日より明らかに高い。対岸へ降りる石段は、もう半分以上見えない。


「第二排水路、逆流始まりました!」


後ろから声が飛ぶ。


「水門は?」


「閉鎖中です!」


「南区の避難は?」


「六割!」


カルディスは振り向いた。


二十四歳。


魔道官としては若い。それでも、この排水施設では副責任者だった。


術式理論。


実務。


魔力量。


どれも優秀。


地方勤務三年目。現場経験も、もう新人とは呼ばれない程度にはある。


机上には、排水魔導施設の術式起動手順書が置かれていた。


厚い。


水系主神への奉告。起動前礼式。十二箇所の安全確認。術者配置。魔石負荷確認。同調。起動。


通常なら、準備開始から実働まで十八分。


今日。


十八分は長すぎた。


     *


「東堤の観測値!」


「警戒線まで、あと十二センチ!」


「上昇速度は?」


「一刻換算で十五から十八!」


室内の空気が変わった。


誰でも計算できる。


猶予は長くない。


主任魔道官は別の排水施設へ出ている。現在、この場で判断できる最上位者はカルディスだった。


年上の術者が聞いた。


「どうする?」


カルディスは手順書を見る。


次に時計。


もう一度、窓の外。


「第一排水陣を先行起動します」


「正式手順では間に合わんぞ」


「短縮します」


部屋が静かになった。


「どこを?」


カルディスは手順書を開いた。


迷ってはいなかった。


「神格奉告を短縮。起動前の定型復唱も一部省略します」


「安全確認は?」


「すべて残します」


「終了礼式は?」


「通常通り」


年長術者が少し考えた。


「規則違反だぞ」


「承知しています」


カルディスは答えた。


「責任は私が取ります」


その言葉を、後になって何度も思い出すことになる。


     *


第一班。


四名。


カルディスを含む。


四人が排水魔導陣へ入る。


床には巨大な術式環。中央には主魔石核。その周囲に、水路制御用の補助核が配置されている。


通常なら、全員が所定位置につき、水系主神の名を正式称号で奉告する。


目的。


対象区域。


術式責任者。


起動権限。


それらを順番に読み上げてから、安全確認へ入る。


今日は違った。


カルディスが短く告げる。


「緊急排水。第一陣。安全確認を優先し、奉告礼式を短縮します」


一人ずつ、安全項目を確認する。


主魔石核。


正常。


逆流防止。


正常。


圧力解放。


正常。


補助核。


正常。


カルディスは全員を見る。


「起動」


水の音が変わった。


地下深く、巨大な排水路へ水が引き込まれていく。


窓の外では、溢れかけていた側溝の水位が少しずつ下がり始めた。


誰かが息を吐く。


「動いた」


カルディスも、ほんの少しだけ安心した。


挿絵(By みてみん)


     *


第一排水陣。


起動成功。


事故なし。


通常より六分短縮。


その六分が、南区の避難に使われた。


後の事故調査でも、カルディスの最初の判断そのものは、技術的には妥当だったと評価されることになる。


だからこそ。


問題は難しかった。


     *


第二排水陣。


別班。


第一班から十分後。


責任者は、カルディスより二歳若い魔道官だった。


「第一が手順を短縮したらしい」


誰かが言った。


「問題なかったんだろ?」


「ない」


「こっちもやる?」


若い責任者は迷った。


カルディスを知っていた。


優秀な先輩。


判断も速い。


現場経験も自分より上。


そのカルディスが省略した。


なら。


「神格奉告は省こう」


そこまでは同じだった。


そして。


「主核の二次同調確認も、一回でいい」


別の術者が顔を上げる。


「二回確認が規定だぞ」


「第一陣が動いた分、こっちの水圧は低い」


「でも」


「時間がない」


正しい。


少なくとも、その場ではそう聞こえた。


二次同調確認は通常二回。


一度でも数値上は十分なことが多い。


しかも第一排水陣が稼働を始めたことで、第二陣への負荷は想定より小さくなっていた。


「やろう」


第二班は、別の一つを削った。


     *


その頃、カルディスは制御室へ戻っていた。


第二班から送られた起動記録を見る。


「二次同調、一回?」


声が止まる。


若い魔道官が答えた。


「許容値内です」


「規定は二回だ」


「第一班も短縮したでしょう」


その言葉が、カルディスの口を止めた。


違う。


自分が省略したものと、彼が省略したものは違う。


自分は術式安全性そのものには影響しない礼式を短縮した。


彼は安全確認の一部を削ろうとしている。


そう言えばよかった。


だが、頭の中に別の声が出た。


――二次同調は、一回でも数値上問題ない。


事実だった。


――今は緊急時だ。


それも事実だった。


――自分も規定手順を変更した。


それも事実だった。


数秒。


その数秒で、カルディスは言うべき言葉を失った。


「……異常値が出たら、即時停止しろ」


結局、それだけを言った。


     *


第三排水陣で問題が起きたのは、さらに二十分後だった。


第三班は、第一班と第二班の運用記録を見ていた。


緊急時。


規定手順は短縮できる。


すでに、そういう空気になっていた。


第三陣には微弱な位相差が出ていた。


許容限界以下。


通常手順なら、報告、再同調、再測定。


数分かかる。


「報告する?」


若い術者が聞いた。


責任者は数値を見る。


許容範囲内。


第一陣も第二陣も、予定より早く動いた。


都市は浸水寸前。


「この程度なら行ける」


「記録には?」


少し迷う。


「起動後に書く」


この判断も、それだけを切り取れば、直ちに異常とは言い切れなかった。


     *


第三排水陣。


起動。


最初の十五秒。


正常。


三十秒。


正常。


四十二秒。


一つの補助核が赤く光った。


「位相差拡大!」


「停止!」


遅かった。


主核と補助核の間で魔力が反射した。


光。


音。


カルディスが覚えているのは、そこまでだった。


     *


目を覚ました時、身体の右側がひどく熱かった。


耳鳴り。


煙。


床。


何かが燃えている匂い。


「……停止……」


声がうまく出ない。


身体を起こす。


右手。


皮膚が焼けている。


視界の端には術者が倒れていた。


一人。


二人。


誰かが叫んでいる。


地下から水が上がってくる。


第三排水陣が損壊したことで、排水先の一部から逆流が始まっていた。


「第一を……落とせ!」


カルディスは叫んだ。


誰かが聞き返す。


「何?」


「全排水陣、停止!」


「でも街が!」


「止めろ!」


今度は迷わなかった。


     *


雨は翌朝には弱まった。


堤防は持った。


南区の一部が浸水した。


住民二十三名負傷。


魔道官四名死亡。


七名重傷。


中央排水施設、大破。


     *


事故調査は半年続いた。


第三排水陣に生じた位相差。


補助核の構造疲労。


異常報告の遅れ。


再同調の省略。


複数の要因が重なっていた。


そして、その背後にあったもの。


手順変更が連鎖した、組織的要因。


国家魔道事故調査院の調査官がカルディスに尋ねた。


「最初に正式手順を短縮したのは?」


「私です」


「何を省略した?」


「奉告礼式の一部と、定型復唱です」


「安全上の直接的な影響は?」


「ありません」


「今でもそう考える?」


カルディスは答えた。


「はい」


調査官は記録する。


「では、あなたの判断は正しかった?」


若いカルディスは、初めて答えられなかった。


技術的には正しかった。


実際、第一排水陣に事故は起きていない。


六分早く排水を開始し、その六分が避難時間になった。


それでも。


「分かりません」


そう答えた。


     *


亡くなった術者の一人は、第二班の若い魔道官だった。


事故そのものは第三排水陣で起きた。


だが、誘発された魔力逆流が第二系統へ走った。


カルディスに、


「第一班も短縮したでしょう」


そう言った男だった。


葬儀の日。


彼の父親から声をかけられた。


責められると思った。


違った。


「息子は、あなたを尊敬していました」


それだけだった。


カルディスは何も答えられなかった。


     *


事故から三年後。


カルディスは中央へ戻った。


魔道事故研究。


安全規範。


魔法行使手順。


そして、やがて教育へ進んだ。


学生には必ず正式手順を教えた。


意味が薄いと感じる礼式も。


古臭く見える定型句も。


まず正しく覚えさせる。


なぜなら、優秀な学生ほど「自分なら省略すべき部分を正しく判断できる」と考えやすいことを知っていたからだ。


自分が、そうだった。


     *


そして二十七年後。


一人の学生が教室で、あの事故記録を読んだ。


眼鏡をかけた少年。


魔力出力は弱い。


術式理解は高い。


自分の頭で考える。


納得できなければ、教師にまで問い返す。


「最初の省略自体が、事故原因だったとは言えないと思います」


若い日の自分が、そこにいるように見えた。


だからカルディスは、必要以上に怒った。


後になって、そのことも認めざるを得なかった。


     *


現在。


研究室。


エリアスが帰った後。


カルディスは一人で、古い事故記録を開いていた。


第一班。


自分の名。


その下には、第二班を率いた若い魔道官の名前もある。


指でなぞる。


窓の外から、学生たちの声が聞こえてきた。


十五歳。


十六歳。


自分たちが、まだ何に失敗するのかも知らない年齢。


カルディスは記録簿を閉じた。


そして、小さく呟いた。


「……正しいだけでは、足りないんですよ」


少し考える。


その日の五柱戦を思い出す。


最後まで正式な終了手順を守り、その結果、自分で残した一本の待機線を見つけた少年。


カルディスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「もっとも」


誰もいない部屋で続ける。


「正しくないよりは、ずっといいですが」

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