第22-3話 五柱戦(3)
その日の夕方。
魔法理論棟。カルディス教授の研究室。
エリアスは一人で呼ばれていた。
「座りなさい」
「はい」
机には、あの古い事故記録が置かれている。
国家魔道事故調査院の旧紋章が刻まれた革表紙。
エリアスは少し緊張した。
競技場より、こちらの方が重く感じた。
カルディスが気づく。
「五柱戦より緊張していますか?」
「少し」
「意外ですね」
「勝ち方が分からないので」
カルディスの眉が動いた。
「ここは競技場ではありません」
「はい」
「勝とうとしないことです」
「……はい」
エリアスは座った。
「今日」
教授が言う。
「終了礼式を省略しませんでしたね」
「はい」
「評価対象だから?」
エリアスは少し考える。
「それもあります」
教授の表情がわずかに硬くなる。
「でも、やってよかったです」
「なぜ?」
「第五柱に補助線を一本、残していました」
カルディスは黙った。
「終了礼の順序で確認しなかったら、そのまま残していたかもしれません」
「つまり?」
「礼式に、安全上の意味がありました」
「あなたの以前の主張は、間違っていた?」
エリアスはまた考えた。
「全部ではないと思います」
教授の表情が固まる。
しかし、エリアスは続けた。
「でも、僕が意味を理解していなかった手順がありました」
沈黙。
カルディスの表情が、少しだけ変わった。
「そうですか」
「はい」
「それなら、私も一つ訂正しましょう」
エリアスが顔を上げた。
「あの事故記録について」
教授の手が、机上の革表紙に触れる。
「あなたの分析は、事実として間違っていません」
エリアスは何も言わない。
「最初に省略された奉告礼そのものが、事故を直接引き起こしたわけではない」
「……はい」
「事故調査報告も、そう結論しています」
教授の右手。
手袋。
「私は第一班にいました」
エリアスの目が止まった。
「省略を提案したのも、私です」
部屋が静かになった。
* * *
二十七年前。
まだ若い地方魔道官だったカルディスは、増水する川のそばにいた。
避難は遅れていた。数分でも早く排水術式を起動する必要があった。
奉告礼は、安全機構には直接関係しない。
当時の自分は、そう判断したという。
「その判断自体は、今でも技術的には間違っていなかったと思っています」
エリアスが顔を上げた。
意外だった。
「では――」
「問題は、その後です」
第二班。
別の省略。
第三班。
さらに別の省略。
「私は止められなかった」
「なぜですか」
「自分が先に規定手順を変えたからです」
カルディスは静かに言う。
「私は、自分の省略と彼らの省略は違うと考えていた」
エリアスは黙って聞く。
「実際、技術的には違いました」
「はい」
「しかし、組織の中では、技術的に違うことと、人間が違うと理解することは同じではない」
エリアスの目が少し動いた。
「第二班の術者は、私を見ていました」
若い魔道官。
緊急時。
規則を省略した。
問題は起きなかった。
だから、自分たちも。
「私は前例を作った。そして、その前例がどこまで広がるかを管理しなかった」
カルディスは右手を握った。
エリアスは何も言わなかった。
しばらくして、教授が少しだけ笑う。
「珍しいですね」
「何がですか」
「あなたが黙っている」
「……何を言えばいいか分からないので」
「それでいい」
少し間を置く。
「分からない時は、黙ることも必要です」
エリアスが教授を見る。
「それ、僕への嫌味ですか」
「半分」
エリアスも少し笑った。
「教授」
「はい」
エリアスは言葉を選ぶ。
「事故の時の教授の最初の判断が、間違っていたとは言えないと思います」
カルディスは黙って聞いている。
「でも」
エリアスは五柱戦を思い出した。
一本の線。別の線。
一つの操作が、次の操作へ影響する。
「自分の判断が正しくても、それを見た別の人が同じ境界を引けるとは限らない」
教授の目が止まる。
「そういうことですか」
「かなり近い」
「……なるほど」
「そして、だから手順は、一人の優秀な術者だけを前提に作ってはいけない」
エリアスは頷いた。
「今日、少し分かりました」
「少し?」
「全部分かったと言うと、また怒られそうなので」
カルディスは今度は、はっきり笑った。
* * *
エリアスが立つ。
「では、失礼します」
「フェルマー生」
「はい」
「五柱戦について、一つ」
教授は記録用紙を見る。
「あなたは今日、規則の隙を突いて勝ったと思っていますか?」
エリアスは少し考える。
「少し」
「違います」
即答だった。
「規則は隙ではありません」
エリアスが見る。
「与えられた条件です」
カルディスは言った。
「接続本数に制限がない。待機接続も認められている。終了時の制御数で勝敗を判定する。あなたはそれを正確に理解して、自分の能力に合った方法を選んだ」
「はい」
「正当な術式運用です」
エリアスは少し意外そうな顔をした。
「ただし」
来た。
「ロッセル生が最初から二柱の防御に徹し、あなたの接続そのものを妨害していたら?」
「……かなり困ります」
「でしょうね」
「負けてたかも」
「でしょうね」
教授は教本を開いた。
「一度成功した方法を一般化しないこと」
「はい」
「それから」
「はい」
「次の座学で、神格の正式称号を省略したら減点します」
エリアスは黙る。
「教授」
「何です?」
「それは――」
カルディスが見る。
エリアスは口を閉じた。
数秒。
「……分かりました」
「よろしい」
エリアスが扉を開く。
「失礼します」
「フェルマー生」
また振り返る。
「はい?」
「今のは」
教授は教本へ視線を戻した。
「黙るべき場面ではありません。返事をする場面です」
エリアスは困った顔をした。
「はい、教授」
「よろしい」
扉が閉じた。
* * *
外は夕暮れだった。
魔法理論棟の石壁が、傾いた陽に淡く染まっている。
階段の下で、ヒルデガルドが待っていた。
エリアスが降りていく。
「どうだった?」
「進級の方は大丈夫」
「それは知ってる」
「教授?」
「そう」
エリアスは少し考えた。
「たぶん、大丈夫」
「たぶん?」
「前よりは」
二人は歩き出した。
「謝った?」
「うん」
「ちゃんと?」
「今度はちゃんと」
「教授は?」
「教授も少し謝った」
ヒルデガルドが驚く。
「カルディス教授が?」
「謝ったというか、訂正した」
「でしょうね」
彼女は妙に納得した。
少し歩く。
夕方のキャンパス。
授業を終えた学生たちが寮地区へ戻っていく。九柱路にも学生の流れができていた。
道沿いに立つ九本の古い石柱。その足元では、夕刻を知らせる魔石灯が一つずつ灯り始めている。
二人もその流れへ入った。
エリアスが言う。
「ヒルデガルド」
「何?」
「昨日」
彼女が見る。
「負けないでって言ったでしょう」
一瞬、歩幅が乱れた。
「……言ったけど」
「ありがとう」
普通に。
それだけ。
「うん」
ヒルデガルドは前を向いた。
「どういたしまして」
少しだけ口元が緩む。
――まあ。
今はこれでいい。
まだ三年もあるのだから。
【挿絵 夕方の九柱路を帰るふたり】




